応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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人には誰でも名字と名前があります。また、それぞれの人が生まれた家には家紋が伝えられています。
そして、名字と家紋には、密接な関係があるといわれています。
名字と家紋はどのように生まれ、広まり、どのような名字でどのような家紋が使われたのか?。
なんとも気になる名字と家紋の関係、目で、足で、ジックリと探っていきます。
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そもそも名字とは、古代の氏・姓制度にそのルーツがあるとされている。下って平安時代、貴族はそれぞれの住居の地名をもって自家の称号とした。鷹司殿・近衛殿などと呼ばれているのがそれである。一方、当時の開拓領主であった武士の場合は、それぞれが独自に開拓した土地を子供たちに分与し、子供たちは与えられた土地の名をもって自家の名乗りとした。これが名字の発生であり、名字が土地と関わっているといわれる所以である。
●家紋の原点
では、家紋はどうか?家紋はもともと公家から始まったとするのが定説である。すなわち、平安貴族たちは自家の牛車や調度などに当時流行していた文様を付けて、他家と区別をしたのであった。巴紋や木瓜紋はその濫觴とされるものだ。
武士の場合、開拓が進むにつれて他の開拓領主である武士との間に争いが不可避となり、結果、武力で自家の土地を守り、あるいは侵略することで武技に練達し、武力集団に成長していった。当時、武士には家紋はなかったようで、何らかの目印で敵味方の区別をしていたようである。いわゆる源氏の白旗、平家の赤旗などはその例であろう。
【家紋: 左/徳大寺木瓜 ・ 右/近衛牡丹】
●家紋の発生
やがて、武士は中央とのつながりを有する武門源氏、あるいは武門平家などに仕えるようになっていった。
そして、平安後期に至って、源氏・平家が中央貴族の武力を担って相争うようになると、いずれかに属した武士たちは、
自分の功名を大将に認められることで、先祖代々の土地を守った。それには、自分の働きを大将に印象づける印が
必要となる。そこで生まれたのが、武家の家紋だったのである。
貴族の家紋は優雅であり、武家の家紋がシンプルであるのは、ここに理由が見いだせる。複雑なものより、
単純な意匠の方が大将の目に残りやすいからに他ならない。また命を懸けて土地を守ったことから
「一所懸命」の言葉も生まれたのである。このように、貴族の紋はおくとして、
武士の名字と家紋は、武士が命を懸けた生き様から生まれ、いまに伝わってきた。仇やおろそかかにはできないものである。
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イメージ写真(左より):但馬表米神社-瓜紋・摂津多田神社-笹竜胆紋・大和春日大社若宮おん祭-下り藤紋
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