石畳紋
石畳とは神社の敷石のことである。
神官や氏子が家紋にし、桓武平氏土屋氏の代表紋でもある。
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石畳とは、神社の敷石である。昔は庭園などに石を敷くのは貴族だけであった。しかし、神社では敷石がひかれていた。これは多くの人が参詣するのに、敷石がなければ皆が難渋するからであった。現代のようには、舗装ができなかったためである。
また、わが国では、石を単なる物体とは考えていなかった。すなわち石も生きていると思っていた。国歌「君が代」にある「さざれ石の巌となりて…」のようい、小さな石がやがて大きく成長すると考え、石にも魂があるものとされていた。石は大いに尊重されていたのである。
このように、石は尊ばれ、また神社で敷石として用いられることが多かったため、敷石は間接的に神社を表わすようになった。そして、神主や有力氏子らがそれを家紋として用いるようになった。家紋の石畳は真四角の石が一個というのが基本形である。
とはいえ、真四角の石が一個だけでは四角い餅などと間違えられる。そこで、畳形に配置するように数個の石を連続して用いることが多い。三つ石、五つ石などであり、これが石畳紋である。
石畳紋が文献ではじめて見られるのは、『吾妻鏡』の宝治五年の条で、薬師寺氏が「差物五石畳文之旗、筋違橋北辺ニ鳴鏑ヲ飛バス」とあり、石畳文と書かれている。文とは書かれているが紋であることに違いはない。
石畳文様は、平安中期にはすでに衣服に用いられており、『年中行事』『伴大納言絵巻』などにも描かれている。この頃は石という観念で用いられていず、単なる文様にすぎなかったようだ。それが、鎌倉時代以降に、家紋として採用されて意味が変わったようである。それは、石畳紋を使用する家が直接、間接的に神社と関係があるからだ。
おそらく、古来ある石畳文様を神社関係の家が、敷石になぞらえて家紋として使用し始めたものだろう。
石畳紋を用いる武家で有名なのは土屋氏である。土屋氏には出自を異にするものがあるが、著名な家としては、桓武平氏良文流で、平安末期、中村庄司宗平の三男宗遠に始まる土屋氏。そして、甲斐の戦国大名武田氏に仕えた土屋氏がある。いずれも、三つ石を家紋としている。
さきの土屋氏は、上杉禅秀の乱に禅秀方となり、乱後所領を没収されている。このとき、甲斐武田氏も禅秀方で、ともに苦汁をなめている。一方、戦国大名武田氏に仕えた土屋氏は、清和源氏一色氏から出て土屋氏の家名を再興したもので、もとは同じ桓武平氏であった。武田氏滅亡のとき、勝頼に最後まで従って殉死した。のちに遺児が家康に見い出され、近世大名土屋氏となっている。
戦国時代、信濃の大名であった高梨氏も「石畳」紋であった。清和源氏井上氏流で、戦国時代に武田信玄の勢力に押され、小笠原氏・村上氏らとともに越後の上杉謙信を頼って退却するに至る。これが、信玄と謙信による「川中島合戦」の一因となったことは知られているところだ。
石畳紋は、鳥居氏、鵜殿氏など、神官出身の武家が使用した。近世大名では、本堂氏が「八つ石畳」を用いたことが知られる。
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写真:京都鷹峰光悦寺参道
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!
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