井桁/井筒紋
井戸の地上部分の木組みから転じた、
徳川家康四天王の一人井伊直政の紋として知られる。
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井戸の地上に出ている部分、あるいはその木組みを井筒、あるいは井桁と呼んでいる。井戸は水をたたえた大切な場所であり、汚してはいけないところであった。つまり、生活に欠かせないことから、家紋として用いられるようになったと考えられる。また、「井」という字の単純明快なことも武家の紋にふさわしかったのであろう。
井の字の正体を「井筒」、隅を立てたものを「井桁」と呼んでいる。いずれにしろ「井」の字を図案化したもので、井上・酒井・花井・駒井・石井などの諸家が用いている。まさに名字を現わしたものである。
古い記録としては、朝倉氏の重臣であった甲斐常治の子、千菊丸の武具に家紋の井桁をちりばめた金銀の金物を用いるということが「文正記(文正元年=1466成立)」に記されたものである。甲斐氏の紋は「見聞諸家紋』にも井桁とみえている。また諸家紋には石井・長井氏の紋が記され、長井氏のものは総角のなかに井桁を据えた意匠である。さらに遠江の井伊氏の家紋は筆記体の「井の字紋」で勢いを見せている。
井伊氏の「井の字紋」はのちに幾何学的な井筒紋に替えられた。井伊家は遠江国引佐郡井伊荘から発祥したが、その祖は井戸から生まれたという伝説をもている。井伊荘は浜名湖に近く、名井があって、多くに人が利用した。たんに「井」とよばれていたが、良い井戸というので「イイ」となり井伊の字をあてたのだという。
あるとき、この井中より一子を抱いた化人が現われ、橘を一子のわきに置いて姿を消した。井谷八幡宮の神主は、赤ん坊の泣き声に驚き、神授として大切に育てた。これが井伊氏の祖先であり、家紋を「井桁に橘」とした由来であるという。のちには、橘と井桁とを二つに分けてそれぞれ家紋として用いた。さらに橘は丸を付けて「丸に橘」となっている。
●写真
左:井伊氏の旗印(彦根城にて)
右:京都頂法寺の日蓮像と井筒に橘紋
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日蓮宗の寺紋は「井桁に橘」として知られるが、宗祖の日蓮上人が井伊氏の支流という伝説から取り入れられたものという。そのもととなったのは、井伊家中興の祖で徳川家康の四天王の一人であった井伊直政が日蓮宗に帰依したことにある。日蓮上人が井伊氏から出たとするのは後世の付会であろう。
井桁を用いた武家に駒井氏と長井氏とがあった。この両家はともに甲斐武田の家臣で養子縁組みをしていた。つまり、駒井昌長の弟吉正が、長井吉成の養子となったのである。これを記念して両家の「井」の字を重ねて、駒井氏は「重ね井桁」長井氏は「組井桁」にしたのだと伝える。
また、「井桁に菊」という紋がある。旗本夏目氏の紋として知られ、その後裔で明治の文豪夏目漱石も用いたものである。しかし、この紋の井桁部分は本来垣根を表現したもので「籬(マガキ)に菊」が正しい。籬は複雑で描きにくかったことから、次第に簡略化され、とうとう「井桁」になってしまった。家紋が変化していく一面を現した話といえよう。
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