柏 紋
古代、柏は食器としても用いられ、神事の際にも使われた。
そして、神官などが紋とした。
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柏はブナ科の落葉中高木で、英語ではJapanese Emperor Oakと呼ばれている。葉は大きく柔らかく弾力があり、
秋に枯れた葉が新芽が出るまでは落葉しないという特長を持っている。この特性が、「代が途切れない」
縁起物とされて「柏餅」を包むのに用いられるようになった。
古代には柏の葉の適度な大きさから食物を盛る器として用いられ、神に供物を捧げる際の器としても使用された。
また、樹木の葉を守護する
「葉守の神(御饌津神(ミケツカミ)」は柏の木に宿るとされ、源氏物語の柏木の巻にも記されている。
いまでも、神社に参拝したとき神意を呼び覚ますため「柏手を打つ」が、これも柏と神との関係からきたものである。
これらのことから、柏はやがて神社の紋となり、神事に奉仕する神官や有力氏子などが家紋として用いるように
なった。伊勢の久志本氏は皇大神宮に奉仕し、尾張の千秋氏は熱田大宮司として奉仕をし、それぞれ柏を家の紋としている。
その他、筑前宗像大社宮司の宗像氏、吉田神社の神官
卜部氏、備前吉備津神社宮司の大守氏はなどの神官が柏紋を用いている。大守氏のものは、
「庵に柏」という意匠で、神に御饌を供える姿を象ったものであろう。
一方、衣服の文様として古くより蔓つきの三つ葉柏が多く用いられるが、
『前九年絵巻』のなかに描かれている蔓付きの三つ葉柏が古い例である。
紀州根来寺の寺紋…三つ柏紋
………
新義真言宗を唱えた覚鑁上人が開いた「根来寺」の寺紋は
「三つ柏」で、境内のいたるところで目にする。居合わせたお坊さんに
由来を尋ねたが明確な回答は得られなかった。根来寺は、
鉄砲伝来と戦国末期に秀吉軍の攻撃を受けて一山焼き尽くされたことが
知られているが、いまも焼亡を免れた多宝塔に当時の弾痕が残っている。
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武家では、藤原秀郷流首藤氏からわかれた山内氏、桓武平氏良文流の葛西氏の「三つ柏紋」が知られている。
山内氏の場合、土佐山内氏家譜には先祖の武功譚にちなむと記されているが、それ以前から「三つ柏」を家紋として
いたことが知られ、時代的にはうなずけない。むしろ、熱田神社の千秋氏との関係から柏紋を用いるようになったとする
説の方がうなずける。
山内氏は奥州・安芸・丹波地方に一族が広がったが、いずれも三つ柏を家紋としている。
土佐山内氏の柏紋は「細柏で」、とくに「山内柏」「土佐柏」と呼ばれる。
葛西氏は源頼朝の奥州征伐に従軍して功があり、その恩賞として葛西五郡、
胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿・本吉・六十六島など、宮城県北部から岩手県南部にわたる広汎な領土を得た。
奥州の新領地に下向した葛西三郎清重は牡鹿郡石巻で祝宴を開いた。
そのとき、「、空より三葉の柏が舞い下り、清重の盃に映った」これを家門繁栄の瑞祥として家の紋にしたと伝えている。
葛西氏からは江刺・薄衣・岩淵・柏山などの庶子家が分れ、こぞって三つ柏を紋としたが、葛西氏本家の
三つ柏紋は葉の先端に月星を配して嫡庶を明らかにしていた。
室町時代に成立したという『見聞諸家紋』には、熱田大宮司千秋氏の「実付き三つ葉柏」、宗像神社宮司宗像氏の
「一つ柏」、さらに、水原・山内氏の「柏巴」、雀部氏の「違い柏」、野間・上林氏の「枝柏」、朝日氏・清和泉守の
「六つ葉柏」などが収録されていて、柏紋が多くの武家に用いられていたことがわかる。
■見聞諸家紋に見える柏紋
また、近世大名では徳川譜代大名である牧野氏の「三つ柏紋」が有名だ。
外様大名では、豊後岡藩主の中川氏、阿波藩主の蜂須賀氏らがが柏紋を用いた。
中川氏のものは円をずらしながら組み合わせた独特の「抱き柏紋」である。
牧野は槙野とも称するが、槙とは神聖な木を指し柏と同義に扱われることが多い。
その他、清和源氏では今井氏・神尾氏・井上氏、
藤原氏では中御門氏・萩原氏・藤井氏・高橋氏・加納氏、桓武平氏では長田氏など。ほかに大江氏流の境野氏が
「上り藤内に三つ柏紋」を使用している。
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