蝶 紋
平安末期の平氏一門がこの紋を多く用い、
やがて平氏を代表する家紋として定着した。
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蝶は平安のころより、装飾文様として使われていた。平重盛の子維盛は、蝶紋を車紋として用い、平家一門の公達も
鎧などに蝶紋を使用していた。平氏は源氏によって滅ぼされたが、生き残った「六波羅党」と呼ばれる武士集団も蝶紋を
用いた。このように平氏一門・一族が蝶紋を多く用いたことから、蝶紋が平氏の代表紋として見られるようになった。
日本各地に平家の落武者部落とよばれる所があり、平家の子孫を証するものとして平家の公達に発する系図一本と
平家の赤旗、蝶紋を伝えている。たとえば、能登の時国家は能登に流された平時忠の子孫といい「揚羽蝶紋」を定紋とし、
四国祖谷の阿佐家も平家の子孫を称して赤旗と蝶紋を伝える。平家落武者のことに関する真偽はここで語るものでは
ないが、落武者部落では蝶紋が平家のシンボルとされていたことが理解できる。
しかし、源氏に属して平氏と戦った坂東武者、千葉氏・上総氏・畠山氏などの諸氏も桓武平氏であったが、いずれも蝶紋は使用していない。ちなみに千葉氏は「月星」、上総氏は「星紋」、畠山氏は「村濃紋」を用いていた。その他、坂東の桓武平氏である北条氏、熊谷氏らも蝶紋を使用した形跡はない。ただ、公家の場合をみると、桓武平氏高棟流の諸氏が多く蝶紋を用いている。また、伊勢平氏と呼ばれる流れの武家が蝶紋を使用していた。
たとえば、清盛の後裔を称する伊勢の関氏、繁盛流の伊勢氏らである。 武家をみれば、清盛の後裔を称する伊勢の関氏、繁盛流の伊勢氏らが蝶紋を用いている。戦国武将織田信長も平氏の後裔を称して、揚羽蝶紋を使用していたことが知られている。
相模の戦国大名後北条氏の祖早雲は、はじめ伊勢新九郎を称していた。のちに、北条氏の名字を名乗り、家紋も
「三つ鱗」に変えた。しかし、その後も「対い蝶紋」も用いている。
おそらく蝶紋が早雲の本来の紋であったと考えられる。
戦国武将織田信長は、忌部氏の後裔が正しいと思われるが、ある時期から平氏の後裔を称して、揚羽蝶紋を用いる
ようになった。これは中世、源平交替論ということが信じられ、信長は源氏の室町幕府にとって代わろうとして平氏の
子孫を称した。そして、平氏を表すシンボルとして蝶紋を用いたのだという。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えて、
大大名となった池田氏の蝶紋も有名である。この池田氏の蝶紋は、織田信長から拝領したものという。
池田氏の出自は必ずしも詳らかではないが、摂津池田氏の一族であろうといわれている。
摂津池田氏は景行天皇の後裔が和泉国の旧池田村に居住し、その地の豪族として朝廷から池田首(オビト)の姓を
賜った。その後、中納言紀長谷雄の子淑望の次男維実を迎えて、以後、紀姓池田氏となった。平安末期、源頼政の
弟・仲光の四男泰政が養子に入ったことから清和源氏を称するようになったと伝える。泰政はその後、美濃池田と
摂津豊島の地頭職を兼ね、京都滝口にあった武者所にも勤め、源平の争乱にも遭遇した。さらに、室町時代を経て
戦国時代になると摂津国の有力国衆となり、室町幕府にも仕えた。摂津池田氏の家紋は『見聞諸家紋』にも記され、
「横木瓜紋」であった。大名池田氏も本来は木瓜紋を用いていたと想像される。
『応仁後記』には、三河の住人大河内正綱が「菊一揆」を結成したことが書かれている。大河内氏の家紋は「臥蝶(浮線蝶)」であったが、以後、中に菊を取り入れた。これが大河内松平氏の定紋「伊豆蝶」となる。その他では、信濃佐久の依田氏が「三つ蝶紋」を用いた。
蝶紋にはさまざまなバリエーションがあるが、「蝶の星」と呼ばれる不思議なものもある。
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家紋:なんとも怪しく不可思議な「蝶の星」紋
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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