鱗 紋
北条時政が家運隆盛を祈願したとき、
その万願の日に、大蛇の鱗が残されたという。
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鱗紋は魚の鱗を象ったものといわれる。古くから、正三角形、あるいは二等三角形を用いた幾何学模様があり、連続した文様として『春日権現験記絵巻』『法然上人伝』などに用いられている。鱗紋は三角形一つの「一鱗」から九つの「九鱗」など鱗の数によってバリエーションが増えている。基本パターンとしては「三つ鱗」で、鎌倉幕府執権として権力を振るった北条氏の家紋として有名である。
北条氏の鱗紋に関して『太平記』には、
そのむかし、北条時政は家運隆盛を祈念して、江ノ島弁財天に参籠した。そして、満願の夜の明け方に、緋の袴をはいた気高い女房が現われて、
「汝は前世に六十六部の法華経を書写し、六十六ケ国に奉納した。その功徳によって汝の子孫は日本を支配し、栄華を誇ることになろう。しかし、もし非道なことがあれば、たちまち家は滅亡じゃ。よくよく身を慎まねばならぬぞ」
と告げて、たちまち二十丈もある大蛇となり、海中に姿を消した。そのあとに残った三枚の鱗を時政は持ち帰って家の紋にした。その後、時政は源頼朝の創業を補佐し、子孫は鎌倉幕府の実力者となったとある。
この伝説からみれば、北条氏の鱗紋は大蛇の鱗に象ったものであった。
●三つ鱗紋の広がり
鎌倉幕府に君臨した北条氏であったが、やがて衰えをみせるようになり、元弘のころに至って一つ引き両(竜)の新田氏、二つ引き両(竜)の足利氏によって滅ぼされた。大蛇の鱗では、龍には勝てなかったというところだろうか。北条氏滅亡後、三つ鱗の紋は北条氏の後裔を称する横井・平野氏などが伝えた。
戦国時代、小田原を本拠に関八州を支配した後北条氏は、伊勢氏の出身だが、北条氏の家名を相続したことから
三つ鱗を用いるようになった。関東においては、伊勢氏の紋より北条氏の紋の方が重みがあったのである。
横井氏は中先代の乱を起こした北条時行の子孫といい、平野氏は横井氏の分かれといい、ともに北条氏の後裔であった。
その他、飛騨国吉城郡高原郷の領主として一勢力を築いた江馬氏も「三つ鱗」紋を用いた。
江馬氏の出自は、『飛州志』によれば、「平清盛の弟経盛の妾腹の子輝経が、伊豆の北条時政に養育され、
その土地の名をとって江馬小四郎と名乗った」のが祖であると記されている。種子島の領主であった種子島氏は
桓武平氏清盛の曾孫信基に始まるというが、北条時政に助けられ、その養子となり時信と名乗ったことから「三つ鱗」
を家紋に用いるようになったという。神戸市北区に位置する淡河に割拠した淡河氏は北条時房の後裔であったものが、
のちに赤松氏から養子を迎えて赤松一族となったが、家紋は北条氏ゆかりの「三つ鱗」であった。
このように、三つ鱗紋は北条氏の独占紋のようだが、
清和源氏義光流岡田氏、藤原秀郷流中村氏、越智氏河野氏流の河野氏なども用いている。
一方、豊後大神氏流緒方氏の家紋が「三つ鱗(三つ鱗杉)」であった。豊後大神氏は、宇佐八幡宮の大宮司であった
大神氏の一族で、祖大太(惟基)は高知尾明神の神子、あるいは祖母嶽大明神と堀河大納言伊周の女との間に生まれた
神子となっている。大神氏は大和大神神社とも関係があり、大神神社の神紋である三本杉を家紋としていた。
のちに三本杉がデフォルメされて「三つ鱗」紋が生まれたようで、その原型は三本杉に他ならない。もっとも、
大神神社の神使は蛇であり、豊後大神氏の祖は蛇神の子であることから、蛇の鱗をも意識していたものと思われる。
佐伯氏、藤林氏など緒方氏の一族の多くが「三つ鱗=三本杉」紋を用いている。幕末の蘭方医緒方洪庵も
大神姓緒方氏の後裔で、「三つ鱗=三本杉」紋を用いていた。
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写真:淡河氏の菩提寺跡の「三つ鱗」紋
三本杉
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細輪に三つ鱗杉
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家紋の由来をみれば、先祖の神霊譚など不思議な体験に因んだものが多いが、鱗紋はその最たるものといえそうだ。
そして、家紋に籠められた呪力も相当なものがあったのではなかろうか。
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