鶴 紋
鶴はめでたい動物として尊ばれ、
原氏真夏流の一門、武家では南部・蒲生氏が用いた。
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鶴は古来より霊鳥として尊ばれ、亀と並んで長寿のシンボルとして、めでたい動物といわれてきた。また、その優雅な
姿とよくとおる鳴き声で数多いる鳥の中の女王とも称される。鶴はツルと呼ばれるが、昔はタヅとも呼ばれていた。
「夕鶴」という劇のなかで鶴の化身であるヒロインが田鶴と名付けられているのは、まことにふさわしい。
鶴の文様は『平氏納経』の表紙や、『北野天満宮縁起』の絵巻にも見られるなど古くから用いられていた。
家紋となったのは、これらの文様からの転化である。
鶴紋を使用する公家としては藤原氏真夏流の日野氏が知られ、一門の広橋・柳原・烏丸・北小路などの諸家も鶴紋を
用いている。武家の紋としては、『蒙古襲来絵巻』に描かれた十文字の上に鶴丸が据えられた島津氏の旗紋が
古いもので、戦国時代では南部氏と蒲生氏の鶴紋が有名である。
南部氏は甲斐武田氏の一族で、甲斐国南部を領して南部氏を名字としたものである。源頼朝の奥州征伐に従って功が
あり、陸奥の一角に領地を賜り、一族を率いて領地に移住し、
以後南部氏の住んだ土地も南部と呼ばれるようになった。
家紋はもともと武田氏の一族として菱紋を用いていた。それが、戸沢氏と戦ったとき、陣中に鶴が舞い降りてきた。
これを瑞祥として合戦に臨み、戦に勝利したことから、これを記念として、以後鶴を家紋とした。『羽継原合戦記』に
「南部氏は菱鶴」とあることから、戦国時代のはじめにに対い鶴に変化したようだ。そして、鶴の胸のところに
九曜を据えているのが特長的である。その他、清和源氏頼親流の石川氏、同じく義家流の森氏らが「鶴」紋を用いている。
蒲生氏は藤原秀郷の後裔で、近江国日野郡蒲生庄に住んだことから蒲生を名字とした。『蒲生家系図由緒書』によれば
蒲生氏が鶴紋を用いるようになったのは、嘉吉元年(1421)、蒲生秀綱が足利将軍家に
属して合戦に参加したときのことという。秀綱は赤松満祐が将軍義教を攻めたとき、将軍家に味方して
敗戦、敗走の途中で道に迷ってしまった。そのとき、一羽の鶴が蒲生氏の旗を加えて飛びたった
、その鶴の後を追っていくと窮地を無事に脱出することができた。それを吉例として鶴紋を家紋とするようになり、
一族の儀俄・和田・小谷・室本の諸氏もこぞって鶴紋を用いるようになったのだという。
。戦国時代、織田信長に見い出された蒲生氏郷は、信長の死後、秀吉に仕えて松坂十二万石の大名となり、のちに、
会津に移封されて五十万石の太守となった。この時、土地の武士佐野某から、秀郷流の同族である好をもって
巴紋を贈られ、巴紋も併せて用いるようになった。おそらく、蒲生氏は鶴紋を用いる前は、秀郷流として巴紋を
用いていたのではなかろうか。
清和源氏石川氏には二つの流れがあり、八幡太郎義家の子義時の子義基が、河内国石川郡石川荘を領して
石川を称したことに始まる義基流石川氏は徳川大名となり笹竜胆紋を用いた。一方、
「前九年の役」に際して源頼義に従って奥州に下向した大和守源頼親の三男頼遠の子有光が、
陸奥国石川郡泉荘の支配を委ねられ土着したことに始まるのが
頼親流石川氏である。有光の子孫は戦国時代を生き抜き、近世は伊達家の重臣として続いた。その家紋は
、築城伝説にちなむ「松の苗木を咥えた舞鶴」であった。諸家紋に見える石川氏は備中守護細川氏の
守護代を務めた幸山城主石川氏のものと思われる。森氏は相模国愛甲郡森庄から起こったといい、信長に仕えた森蘭丸は
本能寺の変において弟の坊丸・力丸とともに信長に殉じて討死した。
『見聞諸家紋』には蒲生氏・石川氏をはじめ桓武平氏流の大和氏の「対い立ち鶴に二つ引き両」、楢葉氏の
「対い立ち鶴」が収められているがいずれもリアルな図柄のものである。さらに、佐脇氏の「月雲に対い鶴」、波々伯部
氏の「松喰み対い鶴」、長塩氏の「庵に鶴」などが収められている。一方、『羽継原合戦記』には南部氏のほかに高井
左衛門が「松に鶴」、葛山氏が「庵内に舞鶴」、櫛置氏・後庁氏が「舞違い鶴」を用いたとあり、鶴紋が多くの武家に
好んで用いられていたことが知られる。
■見聞諸家紋に見える鶴紋
対い立ち鶴 /飛び鶴 /松喰み対い鶴 /月雲に対い鶴紋
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ちなみに鶴紋といえば、かつての日本航空の社章として有名な「鶴丸」が一般的だが
、鶴の姿勢によって呼び方が変化する。ちなみに
飛んでいる様のものを「舞鶴」といい、上向きのものを「昇鶴」、下向きのものを「降鶴」という。起立した状態で
一羽の場合は「一羽鶴」、二羽であれば「二羽鶴」といい、左右向かいあっているものを「対鶴」という。
「対鶴」の場合、一羽は嘴を開き、もう一羽は嘴を閉じた阿吽形を示すのが決まりであった。他にも菱形の「菱鶴」、
嘴を咬みあった「咬合鶴」など、図柄のバリエーションはまことに多彩である。
この鶴紋に限らず、日本人の意匠に対するこだわりの深さには驚くばかりだ。
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写真:京都六孫王神社に南部利剛が寄進した石灯籠に見える「南部鶴」紋
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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