牡丹紋
牡丹の花はその豪華さから百花の王とされ、
近衛家がはじめて牡丹を車紋に使用し、家紋に転じた。
大割牡丹 蟹牡丹 津軽牡丹 向う牡丹

 牡丹は中国原産で、唐の都長安や洛陽では、春五月になると、牡丹がいっぱい咲きこぼれたという。日本には唐代に留学僧が持ち帰り、お寺のわきに植えたのが始まりという。大和の長谷寺の牡丹は有名だが、その名残であろう。はじめは、薬用に供されたとかで、長谷寺では華麗さを求めず品種改良をしないのだといわれる。
牡丹  牡丹の花はまことに豪華で艶艶な美女を連想させる。中国では富貴の象徴とされ、百花の王と呼ばれた。日本に伝来すると珍重され、貴公子の間に広まり、やがて衣服などの模様に取り入れられた。神護寺の源頼朝画像の着衣にも図案化した牡丹が描かれている。
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写真:東本願寺築地塀沿いの歌壇にて

 建保・承久年間に成立した『大要抄』の車紋の項に、「一の人、上は白くして、袖は牡丹」とあり、一の人とは関白のことで、近衛家実である。この記述から、一の人すなわち臣下として第一の人を牡丹であらわした。百花の王だから、第一の人に比したのである。やがて、近衛家は車紋とし家紋にした。摂関家の中でとくに近衛・鷹司家が牡丹紋を用いたのは、両家が摂関家の筆頭だからである。
 鎌倉時代では、牡丹模様は摂関家の専用する文様のように扱われ、天皇家の紋章である菊.桐についで権威があった。ちなみに、五摂関家の他の三家、九条・一条・二条家はそれぞれ藤紋を用いている。
 武家では、清和源氏の中川・多田の両氏が知られる。いわゆる摂津源氏であり、一族の田能村・佐分氏も用いた。摂津源氏は近衛氏との関係はなく、もともと「獅子に牡丹」を用いていたが、のちに獅子を略し「牡丹」だけを家紋としたのである。「獅子に牡丹」は、牡丹が百花の王なら獅子は百獣の王で、摂津源氏の武威を表現したものであった。さらに、近衛家の関係から牡丹を用いる家が広まった。
牡丹  江戸時代の大名家では、伊達・島津・津軽・鍋島氏、そして上野矢田の松平氏が用いた。伊達氏は綱村のときに近衛家に願って贈られ、その後重村の代に近衛内前の養女を室に迎え、斉村の代には鷹司輔平の娘を夫人とし、婚姻により実質的な裏付けを得た。島津氏は近衛家の島津庄司の役により下賜され、津軽氏は戦国時代に近衛家から養子(落胤だという)を迎え、江戸時代にそのことを近衛家に認められ家紋を与えられた。上野矢田の松平氏は、鷹司信房の子信平が、紀伊徳川頼宣の娘を娶り、その縁で家光に仕え松平姓を許され、のちに大名に列した家である。浄土真宗の東本願寺の寺紋は「牡丹」であるが、これは江戸時代の中ごろ、近衛経熈の娘熈子が東本願寺光朗に嫁いだことから用いられるようになったという。このように、牡丹紋は近衛家との関係をもって用いたことが分かる。
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写真:東本願寺の境内で見つけた牡丹紋

 一方、鍋島氏は近衛家とは関係がなく、藤原氏秀郷流という。秀郷流では、石尾・荒木・河村・佐山の諸氏も牡丹紋を用いている。その由来は不明だが、もともと「獅子に牡丹」紋であったのかも知れない。そういう意味では先の摂津源氏もだが、本来の牡丹紋とは区別されなければならないのかもしれない。
 牡丹紋は、近衛家との関係から高貴な紋とされ、庶民の間では用いられることはなく、いまもしこの牡丹紋を用いる家があれば近衛家と関係がありそうに思われる。

牡丹紋を使用した戦国武将家
荒木氏 忽那氏 多羅尾氏 津軽氏

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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 家紋の由来にリンク


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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家紋イメージ

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