沢瀉・面高
(おもだか)紋
水草の一種でその葉が矢尻に似ていることから、
武人に好まれ、勝ち草、勝軍草などとも呼ばれた。
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沢瀉は池や沢などに自生する水草の一種で、七月から八月のはじめに白い可憐な花を咲かせる。
矢尻状の葉が盛り上がっているので「面高」とも書かれる。すでに
平安時代、車の文様に沢瀉を用いた記録があり、相当古くからの文様であったことが知られる。
江戸時代には、水盤などに活け鑑賞草として楽しまれた。
沢瀉が群生しているさまは、まるで矢尻を並べたように見える。そして武人に好まれ、勝ち草、勝軍草などとも
呼ばれた。源平時代に沢瀉威の鎧が武将の間に用いられ、『平家物語』には、熊谷次郎直実が沢瀉の文様を刷った
直垂を着ていたことが記されている。
沢瀉が家紋に採用されたのは、そうした武士たちの戦陣などにおける縁起からきたものであることは間違いない。
沢瀉紋は葉だけのものと、花を組み合せたものとがあり、前者は単純に沢瀉紋と称し。後者は花沢瀉と称される。
また、葉の数によって「一つ沢瀉」から「九つ沢瀉」まであり、また、水を添えた「水沢瀉」さらに「抱き沢瀉」
「対い沢瀉」などもある。
沢瀉を用いる武家で有名なのは、徳川譜代大名である水野氏が挙げられる。水野氏は清和源氏満政流で、はじめ
尾張国小川庄に住して小川を名乗り、のちに同国水野村に移住して水野を名乗るようになった。世にいわれる
尾張源氏の一流である。家伝によれば、「むかしは菊一文字を家紋としていたが、貞守のとき、三河国地鯉鮒明神の霊夢によって、沢瀉を笠・袖の印として戦に勝ったので、以後、沢瀉に改めた」という。とはいえ、小川・水野に水草の沢瀉紋はまことにふさわしい。
戦国時代末期、水野忠政の娘お大が三河の松平広忠に嫁ぎ家康を生んだことはよく知られているところだ。江戸時代には、天保の改革を推進した水野忠邦、旗本奴の水野十郎左衛門も一族で、それぞれ沢瀉紋を用いた。
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写真:シュッとした姿の沢瀉(摂津能勢町川辺にて)
『見聞諸家紋』には、梁田氏の「三つ立ち沢瀉」が収録されている。梁田氏は桓武平氏の後裔で、
鎌倉公方足利氏に仕えた。梁田氏の沢瀉紋は意匠がリアルで、洗練される以前の沢瀉紋の雰囲気を伝えている。
しかし、『関東幕注文』では「三本水葵」と記されており、のちに徳川氏に仕えた簗田氏が用いた紋は「水に水葵」で
見聞諸家紋のものは誤記であろうという説もなされている。
ところで、豊臣秀吉といえば桐紋というのが定説である。しかし、桐紋は下賜にあずかったものであり、
それ以前は「沢瀉」を用いていたいわれる。秀吉の養子豊臣秀次、秀吉子飼いの猛将福島正則らが沢瀉紋を
用いており、両者の沢瀉紋は秀吉からを賜ったというのである。おそらく、そうであろうと思われる。もし、豊臣氏の
天下が続いていたら沢瀉紋は高貴な家紋の一つになっていたかも知れない。
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写真:京都下御霊神社の「水に沢瀉」紋
戦国時代の中国地方の覇者、毛利氏の家紋は「三つ星一文字」が知られているが、沢瀉紋も使用した。これは、毛利元就があるとき合戦に臨んで敵と対峙した。そのよき、沢瀉に蜻蛉がとまっているのを目にし、「勝ち草に勝ち虫、勝利は疑いなし」と全軍に号令した。もちろん、合戦は大勝利であった。
これを記念として、以後、沢瀉紋を替紋としたという。毛利氏の沢瀉紋はダルマ形をした独特なもので、「長門沢瀉」と称される。
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・左家紋:長門沢瀉
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