桔梗紋
桔梗は「吉更=さらに吉」の草木として尊ばれ、
美濃の土岐一族を代表する紋であった。
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桔梗は美濃の土岐氏とその一門の家紋として知られている。
植物としての桔梗は秋の七草のひとつとして、朝顔の名で呼ばれているものである。朝顔とは古代の呼称で、別名オカトトキとも呼ばれた。これは「岡に咲く神草」の意で、このトトキの咲くところから土岐の地名が生まれた。土岐氏が桔梗を家紋に用いるのは、氏を表わしたものに他ならない。
『見聞諸家紋』をみると、土岐氏の紋として桔梗が記され、注して「先陣で桔梗の花を胄にさし、敵を大いに打ち破った」と出ているところから、戦勝的な意味合いも含まれていたようだ。
ところで、桔梗紋の特徴はその色にある。すなわち水色で、紋章を見た場合、中世ではほとんど白黒になっている。土岐氏の水色は、かなりユニークで評判だったことだろう。これは、土岐氏が源氏の一流で、嫡流の白をはばかって、幕を水色に染めたことから、家紋も水色に染めたものであるようだ。土岐氏の桔梗紋は「土岐桔梗」と呼ばれる。
桔梗紋がはじめて文献に登場するのは『太平記』で、「土岐氏が桔梗一揆に六、七百騎を従え…」とある。土岐氏は足利尊氏に従って、建武新政の成立に功があった。
当時の状況を反映した事件のひとつに、美濃国守護土岐頼遠による光厳上皇への乱暴狼藉の一件がある。これは、上皇の車と出会った頼遠が、本来下馬すべきところを降りようともせず、それを上皇の召次にとがめられると、頼遠はせせら笑い、家来にいいつけて上皇の車にさんざんに矢を射かけたというものだ。事件後、さすがにこの一件を重くみた、足利直義によって頼遠は断罪された。
とはいえ、その後も土岐氏は美濃守護として勢力をもち、揖斐・明智・石谷・本庄・鷲巣・船木・池田・浅野・植村などの庶族を分出し、いずれも桔梗紋を用いている。土岐宗家は戦国時代に、京都から流れてきた斎藤道三によって滅ぼされたことはよく知られている。
土岐氏の一族では明智氏が知られ、明智光秀は宗家没落後、諸国を武者修行して歩き、尾張の織田信長に仕えたことから異例の出世をした。しかし、本能寺において信長を攻め殺し、一時明智氏の水色桔梗が天下に鳴り響いたが、豊臣秀吉と京都の山崎において雌雄を決したが敗れ、逃走の途中で討死した。
土岐桔梗に対して太田桔梗がある。これは太田道灌の太田氏が用いたもので、花弁が細いのが特徴である。また、戦国武将の加藤清正は「蛇の目」の紋が知られているが、桔梗紋を使用していた。これは、肥後入国後、その旧主尾藤氏の家紋を襲用せよ、との秀吉の配慮によるものという。
いまも、熊本城内にある加藤神社に訪れると、蛇の目と桔梗の紋が神紋として用いられている。その他、徳川氏に仕えた植村氏も土岐氏の一族を称し桔梗紋を用いたが、一見、桔梗には見えない独特な意匠のものである。
桔梗紋は、桔梗が「更に吉」というめでたい文字の組み合わせでもあることから、美濃土岐氏以外の家でも用いられているが、やはり、土岐氏ゆかりの家で用いられていることが多い。桔梗紋を使用される家の場合、一度先祖を調べて見られてはいかがだろうか。
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写真:丹波谷性寺の桔梗畑にて撮影/
家紋:植村氏の丸の内一文字に覗き桔梗
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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