矢 紋
弓矢は古来武具として用いられ、
物部氏流の平岩氏、伊賀の服部氏などの家紋として知られている。
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弓矢は古来より、狩猟道具として、武具として用いられてきた。それぞれの民族や国ごとに独特の弓が発達したが、なかでも我が国の弓は世界で最も大きい。また、のちには儀礼や呪具としても使用された。
鉄砲が伝わる以前には、武士には欠かせない技能であった。源平時代に活躍した、源為義の八男の鎮西八郎為朝は弓に秀で、保元の乱においてかれの放つ弓矢の精妙さに敵味方ともに舌を巻いたことが知られている。また、武将をたとえる言葉として「海道一の弓取り」などと用いられた。
このように、弓矢は武士にとって必要不可欠な武具として、当然家紋にも好んで用いられるようになったと思われる。また、弓矢を製造する古代の技術者、矢作部などが自分の職業を記念するものとして用い出した。意匠としては弓そのものよりも、矢をシンボライズしたものが多い。もちろん、弓と矢を組み合せたものもある。
矢紋を用いる家として有名なのは、服部氏が挙げられる。服部氏は伊賀の古代豪族の裔とも、桓武平氏の後裔ともいわれるが、古くから伊賀国に勢力を培った大族であった。服部とはハタオリが訛ったもので、古代のハタオリ部すなわち織物に従事する職業集団の末裔かと考えられている。その服部氏の某が、あるとき功を立てその賞として、矢を賜った。それを記念して、以後「矢」を家紋にしたと伝えている。
徳川家康に仕えた服部半蔵もその一族で、家紋は「源氏車に矢」であった。半蔵の場合、伊賀忍者の元締のように書かれることが多いが、「槍の半蔵」の異名が示すとおり槍の名人であり、家康の部将として数々の合戦に臨みその地位を得たものである。
矢紋がはじめて文献にあらわれるのは『羽継原合戦記』で、「鏑矢は、武蔵国の住人太田源次郎、矢筈車は服部、高畠は遠鏑矢」とある。太田源次郎は、太田道灌を出した太田氏のことであり、清和源氏頼光流で、道灌は扇谷上杉氏の執事として、また戦国武将として名が高い。太田氏は「桔梗」も用いたが、「違い矢」紋もよく知られている。
矢紋の意匠は、羽と矢筈と矢尻と、さらに矢全形のものもあり、バラエティに富んだ意匠のものがある。
一方、弓紋は平岩氏が知られている。平岩氏の場合、物部氏流平岩氏と、弓削氏流平岩氏がある。物部氏は古代軍事氏族であり、弓削氏は弓を作る職業的氏族であった。とはいえ、物部氏の同族であることには変わりない。いずれも「張弓」紋を用いている。古代軍事氏族あるいは職業的氏族の子孫として、まことに相応しい家紋といえよう。また、同じ弓削氏の後裔を称する蜷川氏も弓紋を用いている。
■ 見聞諸家紋にみえる矢紋
左から:日奉姓田村氏の三本矢 /飯田氏の三階松に鏑矢 /嶋真氏の違い先割矢羽
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ところで、蜷川氏の場合「合子に箸」という珍しい家紋を用いている。これは、椀と箸を組み合せたものと解されているが、家紋研究家の丹羽基二氏によると、合子は「弦巻」で、箸は「二つ引き両」ではないかとされている。弦巻は弓に欠かせない付属物であり、足利将軍家に仕えた蜷川氏は「引き両」紋を拝領した可能性が高い。可能性として、蜷川氏は矢紋というより、弦巻紋を用いていたのかも知れない。とはいえ、先祖を記念する矢に関わる意匠であったことには変わりはない。
このように、弓矢紋は武士に欠かせない武具を表す尚武の紋として、あるいは先祖・職業を表す紋として広まっていったようだ。
蛇足ながら、発信者の家の家紋は「丸の内に違い鷹の羽」である。が、その出自は霧の中としかいいようがないものである。
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家紋:見聞諸家紋にみえる蜷川氏の「合子に箸」紋
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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