葵 紋
賀茂神社の神紋で、神官や氏子の間に広まり、
江戸時代、徳川氏の家紋として絶対的な権威をもった。
二葉葵 三つ葉葵 立ち葵 三つ剣葵

 葵は、京都にある加茂(賀茂)社の神草で、祭器の模様に付けられ神紋として扱われた。加茂社の祭礼である葵祭の神事にも用いられ、冠・牛車・桟敷の御簾などが、葵で飾られる。そして、加茂社の神官が家紋として用い、賀茂神社の氏子や当社を信仰する家々の家紋として用いられるようになった。加茂社の由緒については諸説あって不詳としかいえない。別雷神社(上社)と御祖神社(下社)とに分かれ、総称して加茂社と呼ばれるる。
双葉葵  葵には何種類かあり、紋章として用いられているのは双葉葵で、ウマノスズクサ科の多年生ツル草。短い茎に二枚のハート形の葉と、薄い紅紫色の花をつける。その双葉葵の葉や花が図案化された。双葉葵は別名加茂葵とも呼ばれているが、これは葵祭の神事に用いられるからである。現在、葵といわれているのは立ち葵のことで、葵紋の双葉葵とは別のものである。
 上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主の後裔である。賀茂県主・葛野県主・葛野鴨県主などとも文献に記される。神武天皇の東征に際し、熊野路を先導して功績をあげたというヤタガラスの伝説がある。このヤタガラスこそ建角身命で、これが鴨県主の遠祖であると伝える。鴨県主は大化以前から京都の賀茂神社の祠官であった。葵紋を用いる神社では、洛西の松尾大社、近江の日吉大社などが知られている。
 家紋の図案として最も古いものは『見聞諸家紋』にみえる西田氏の葵紋で、写生的なものである。西田氏は丹波の武士で、丹波の国神は玉依日売の母神伊可古夜愛媛とされ、古くから加茂社が勧請され、加茂厨がおかれていたことから、西田氏は加茂社の氏子・崇敬者として葵を家紋にしたといわれている。
 また、三河から伊豆にかけて、加茂という地名が多く残っているが、これは加茂社が勧請されたり、加茂社の神領があったことに因んでいる。そして、この地方の豪族である本多・伊奈・島田・松平氏などが、いずれも葵紋を家紋としていた。徳川家の粗といわれる親氏は三河に流れてきて松平氏の婿となり、その子の信光は加茂朝臣を称したという。そして、家紋も葵紋を受け継いだのだといわれる。
 徳川氏の葵は「三つ葉葵紋」として有名なものである。そもそも、松平氏に入る以前の徳川氏は新田氏の一族であったといい、本来の家紋は、広忠の墓や日光東照宮などにみられる「銀杏紋」であったといわれている。家康は天下をとると葵紋の使用を禁じたため、島田・伊奈氏らは葵紋の使用を差し止められた。ところが、本多氏はその後も葵紋を用いた。本多氏は、もと加茂神社の神官であったと伝えられ「立ち葵紋」を用いた。長野善光寺の寺紋も「立ち葵紋」だが、これは本多善光という人物が寺を開いたことによるものである。
 家康は本多忠勝にも葵紋を用いぬようにいったが、忠勝は「当家は神代以来、京都の賀茂神社に奉仕仕る賀茂族、それゆえ賀茂の神紋である葵紋を用いるのは当然のこと。殿こそ本宗新田氏の「大中黒」に代えられてはいかが」といいはなったので、家康もそれ以上は口にしなかったという。ところで、本多氏は系図によれば藤原氏の後裔を称しているが、忠勝の言葉によれば賀茂氏の後裔が正しかったものと思われる。
 江戸時代、徳川家の葵紋の権威が高まり、他氏はもとより、同族の松平氏も葵紋の使用を憚った。かくして、水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか」の決め文句でも知られるとおり、徳川氏専用の紋として絶対的な存在となった。
 葵紋を使用した武家としては、室町時代、古河公方に仕えた簗田氏の「立ち三つ葵」が知られ、『見聞諸家紋』にもみえている。しかし、この家紋は「立ち三つ沢瀉」が正しい呼称なのだといわれる。  

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写真:双葉葵…品川神社の境内にて(撮影=辻内雅也さん)

葵紋を使用した戦国武将家
徳川氏 本多氏 簗田氏

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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 家紋の由来にリンク


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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わが家はどのような歴史があって、 いまのような家紋を使うようになったのだろうか?。 意外な秘密がありそうで、とても気になります。
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