酢漿草・片喰
(かたばみ)紋
酢漿草はありふれた雑草だが黄金草とも呼ばれ、
公家・武家など多くの家が用いた。
|
カタバミは噛むと酸っぱい汁が口に拡がることから酢漿草と書かれ、鳩酸草・片喰などとも表記される。田圃のあぜ道や野原など、どこにでも繁殖するカタバミ科の多年草植物である。ハート型の三枚の葉に、黄色い五弁の花を咲かせる可憐な植物だが、繁殖力が強く一度根付くと駆除に困る雑草である。
とはいえ、酢漿草は「サンショウソウ」という生薬名でもあり、草をもんで傷口にあてると血止めの効果がある。
また昔話に、酢漿草の葉をすりつぶして鏡を磨くと、想う人の顔が鏡のなかにあらわれるという話があるなど、古来、
日常生活の中に役立ってきた。酢漿草の可愛らしいハート形の三つ葉は女性に好まれ、
西洋では賢婦を象徴する草とされた。我が国でも酢漿草の葉を財布に入れておくと、いくら使っても減らないという
迷信から黄金草とも呼ばれて大切にされてきた。
このようなめでたさと、一度根付くとなかなか根絶できないことが「(家が)絶えない」に通じるとして家紋に用いられるようになったようだ。
文様としては、平安・鎌倉の時代に、大酢漿草と呼ばれて車の紋様などに用いられたことが知られる。
紋章としては藤原定家を出した御子左家一門・大炊御門氏らが用い、武家では『太平記』に新田義貞の軍勢のなかに
酢漿草紋を用いた者があると記されている。新田氏流の大館氏が酢漿草紋を用いていることから、あるいは大館氏であったのかも知れない。
備前の戦国大名・宇喜多氏は、かつて広大な湿地帯であった児島郡を開拓して田にした。水が多い田なので浮田、のちに佳字をあてて宇喜多にしたと伝え、家紋は「剣酢漿草」であった。しかし、先祖児島氏の一字をとった「児の字紋」の方が知られている。また、土佐の長曽我部氏はその祖、泰能俊が土佐に下向するとき、別れの盃に酢漿草の葉が七枚浮いていたことから、それを瑞祥として「七つ酢漿草」を紋としたと伝えている。長曽我部氏は戦国時代に元親が出て四国全円を支配するほどの勢いを示した。しかし、秀吉の四国征伐に屈し、さらに関ヶ原の戦いに西軍に属したことで没落した。最期の当主盛親は、大阪の陣において、豊臣方に加担して敗れ、結局長曽我部氏は滅亡した。同時に「七つ酢漿草紋」も世に埋もれた。東寺の百合文書で知られる丹波多紀郡大山の中沢氏、氷上郡青垣の足立氏らが「酢漿草紋」を用いたことから、丹波に多い家紋ともなっている。
室町時代に成立した『見聞諸家紋』には、長曽我部氏の「七つ酢漿草紋」、中沢氏の「酢漿草紋に二つ引両」をはじめ、肥田、多賀、小田、赤田、平尾氏らの「酢漿草紋」が収録されている。『関東幕注文』には上泉・大胡・妹尾・田山・河田の諸氏の紋として記され、『阿波古城諸将記』には、助任・竹内・荒神・安芸・福良氏らが用いたとある。中世において「酢漿草紋」は、日本全国に分布していたこと知られる。
………
写真:京都市北区の氷室町にて
■見聞諸家紋に見える酢漿草紋
亀甲の内酢漿草紋に二月文字 /三つ盛酢漿草 /酢漿草に二つ引 /二つ引に酢漿草
|
酢漿草の図柄はハート型の葉三枚のものが一般的だが、剣を付けたものを「剣酢漿草」と称し、近世大名である
酒井氏の家紋として知られている。優しいイメージの酢漿草に剣を配して、武家らしく武威を示したものだろう。
また四つ葉にしたものもあり、「見聞諸家紋」には依藤氏の紋*
として見えている。酢漿草紋はハート形の可愛らしい意匠が女性に好まれ、紋付の新調などにおいて桐と並ぶ人気の
高い紋だそうだ。しかし、可愛いからというだけで、
本来の家紋に替えてまで酢漿草紋を付けるというのは、家紋のあるべき姿として如何なものだろうか。
*:諸家紋には「浮草」と注されている。
|
|
どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
そのすべての家紋画像をご覧ください!
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
|
これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!
www.harimaya.com
|
|