笹(竹)紋
鎌倉時代のはじめ、勘修寺家が車紋に用いた。
勘修寺家から分かれた上杉氏の紋として知られる。
切竹 根笹 九枚笹 上杉笹

 竹は、その真直ぐのびた姿から昔より、節操・高潔を意味する植物として、また雪にしなう竹のたくましさ、美しさなどが愛された。さらに、天子の着用する衣装に、鳳凰が竹の実をついばむとして、竹が織り出されていた。このようなことから、平安・鎌倉時代にかけて、文様として流行し、家紋として用いられるようになった。
 文様しては、猛宗竹・熊笹などの葉・幹・根などを図案化し、衣服や道具を装飾した。それが、家紋の意匠に転じたのである。「竹の丸」「九枚笹」、あるいは桐と組み合わせた「桐竹紋」などがいつか公家の家紋として定着していった。のちに、まれではあるが筍紋も見られる。ところで、竹と笹の区別はあいまいで、一般に葉が主体となったものを「笹」、竹幹があれば「竹」と呼んでいるようだ。
 武家の家紋としての初見は、明徳三年(1392)の『相国寺供養記』に見える、将軍義満の随兵であった下総千葉氏一族の東師氏、粟飯原将胤が「竹の丸」「根笹」を用いたとされているものである。粟飯原氏は『見聞諸家紋』に「三本竹」として記され、その形も確認できる。また諸家紋から、河内氏、明石氏、上神氏、大島氏らが竹紋を用いたことが知られる。
春日山神社  笹紋では「九枚笹」を豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛、石見の戦国大名でのちに毛利氏の家老となった益田氏らが用いた。
 江戸時代になると、大名・旗本を通じて竹紋(笹紋)を用いる家が二百近くあった。これは、村上源氏の久我一門が用いた「笹竜胆紋」から、笹紋が源氏の紋と誤信されたためと考えられている。
 竹を用いた家紋には、雀と組み合わせた「竹に雀紋」が知られている。おとぎ話の「竹取物語」にもあるように、竹と雀は深く結び付けられていた。文様としても古く、十二世紀のものとされる西本願寺の三十六人集の料紙の下絵に、竹の丸のなかに一羽舞雀の連続模様が描かれ、同じころの平頼盛一門が車に用いていた。  「竹に雀紋」は公家の勧修寺経房が用いてから、甘露寺・万里小路・中御門・坊城・梅小路などの勧修寺一族が家紋とした。
 『見聞諸家紋』に上杉・箸尾氏の竹に雀紋が記され、これが武家における初見とされる。上杉氏は勧修寺氏の一族で、鎌倉時代に鎌倉に下向し武家に転じたものである。南北朝期、足利氏を支え室町幕府成立後その東国における政治機関である鎌倉府の執事となり、のちに関東管領を世襲して権力を振るった。こうして、上杉氏の竹に雀紋は東国の武家あこがれの紋となり、上杉氏一門はもとより、上杉氏に功のあった武家が拝領したことから東国に広まった。戦国時代、上杉氏は長尾氏に家督を譲ったが、そのとき伝来の系図とともに「竹に雀紋」も譲った。また、越後上杉氏が伊達氏から養子を迎えようとしたとき、その引出物の一つとして「竹に雀紋」を伊達氏に贈った。 これが「仙台笹」と呼ばれる伊達氏の家紋となった。伊達氏はまた、最上氏にこの紋を譲っている。
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写真:上杉謙信を祀る春日山神社の上杉笹紋


仙台笹

竹輪に三羽飛び雀

竹輪に三つ筍
 江戸時代になると、大名ではさきの伊達・最上氏、旗本では上杉氏の分流である宅間・加々爪氏、さらに山口・桜井・新井氏などが用いた。いずれも上杉氏との関係から用いるようになったと伝えている。公家のことはおくとして、「竹に雀紋」は武家上杉氏との関係を匂わせる家紋といえそうだ。

笹竹紋を使用した戦国武将家
明石氏 色部氏 上杉氏(越後) 上杉氏(山内) 上杉氏(扇谷) 紀 氏
志駄氏 竹中氏 伊達氏 徳島氏 鳥居氏 益田氏
松井氏 松井氏(駿河) 箸尾氏 菱刈氏

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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 家紋の由来にリンク


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