撫子紋
可憐な花は秋の七草の一つとして親しまれ、
利仁流斎藤氏、大蔵氏流諸氏の代表紋でもある。
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撫子はセキチク科に属した植物で、ふつう河原に咲くので河原撫子ともいう。可憐な草花で、捨てがたい風情がある。中国から伝わった石竹とともに、秋の七草に数えられている。石竹を唐ナデシコというのに比して、河原ナデシコを大和ナデシコと呼んでいるようだ。いまはともかく、昔、日本女性のことを「大和撫子」と呼んでいたのはこの区分とは関係ない。カタチの美しさと、可憐な風情から家紋に採り入れられたようだ。
『見聞諸家紋』には、丹波の葦田氏の紋として記され、一族の赤井氏も「雁金紋」とともに用いた。一方、『羽継原合戦記』では美濃斎藤氏の紋とあり、その一族の疋田・河合氏も用いている。斎藤氏は藤原利仁の子斎宮頭叙用を祖とし、「撫子」は利仁流斎藤氏の代表紋といわれる。また、斎藤氏の撫子は常夏とも呼ぶのは、夏の盛りの如く栄えることを祈念したものであろう。
一方、大蔵氏流秋月氏の「三つ撫子」も有名だ。これは、秋の月に撫子を配した故地の情景を祈念したものだ、といわれている。しかし、大蔵氏の祖春実が藤原純友の乱に際して、朱雀天皇より錦の御旗および天国の短刀を賜わり、小野好古らとともに純友を追討した。その勲功によって西征将軍となり、筑前に所領を賜り九州大蔵流諸氏の祖になった。春実は朱雀天皇より賜った御旗に大和撫子の紋があったことにより、大和撫子をもって家紋とした。その後、大蔵氏は原田氏を嫡流として、高橋・江上・田尻・天草の諸氏が出て鎮西の大族となった。戦国時代、龍造寺氏に仕えた成富氏も大蔵氏流で撫子を紋としており、撫子紋は大蔵一族の共通の紋であったようだ。秋月氏も大蔵氏流として撫子紋を用いたものを、いつの頃か美化したものであろう。
その他、清和源氏では源頼季流の井上・山口の諸氏、藤原秀郷流の柴田氏、穂積氏流の鈴木氏などが撫子紋を用いている。
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写真:拙宅の庭に咲いた撫子の花
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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