徳川旗本として残った戦国大名家

赤松氏/今川氏/大友氏/織田氏/金森氏/滝川氏/筒井氏/土岐氏/畠山氏/別所氏/北条氏/最上氏/山名氏


赤松家 ・五七の桐・
村上源氏といい、中世以来播磨に勢力をはった。しかし、赤松満祐のとき嘉吉の乱を起こし没落。その後別所長治の下に赤松氏満として名を出すが、三木城の落城によって、離散。その子氏置は徳川家康について、二千石の旗本として浮かび上がった。だが表むきは石野氏を称し、赤松氏を称したのはずっと下って宝永年間になってからである。
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【十六菊/引両】

赤松則祐┬義則−満祐(嘉吉の乱)
    ├持則−持祐−祐定−義充−義氏−氏貞−氏満−氏置
    └義祐−持家(有馬氏)

今川家 ・五七の桐・
今川義元の子氏真は父の敗死後、四年ほどで駿河・遠江・三河にわたる大領をことごとく手放し、落ちのびて小田原北条氏に身をよせていたが、そこにも居られなくなって、家康を頼った。以後その保護下に入った。そしてその名族であることが惜しまれて、高家として江戸時代を生き残った。
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【丸に二つ引両】

大友家 ・五七の桐・
戦国時代、九州を三分するほどの勢力だった大友氏であったが、天正六年島津氏との戦いに敗れて以来衰えはじめ、吉統の代に、秀吉によって取りつぶされた。その後、家康に拾われて、子孫は三千三百石の知行を食んだが、のちに嗣なくして家は絶えた。しかし、養子義孝によって家名再興、千石の高家として遇された。
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【杏葉】

織田家 ・織田木瓜・
織田信長の子孫、兄弟から江戸時代には旗本が出て、結構栄えている。二男信雄のあとからは出羽天童、丹波柏原の大名家と旗本が、七男信高も二千石の旗本になっている。弟の信行・信包・長益のあとからも旗本が出ている。
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【織田木瓜/揚羽蝶/五七の桐/二つ引両】

信秀┬信長┬信雄┬信良---------出羽天童
  │  │  └高長┬長頼----丹波柏原
  │  │     └長政----旗本
  │  └信高--------------旗本
  ├信行-------------------旗本
  ├信包−信当--------------旗本
  └長益┬長政--------------大和芝村
     └尚長--------------大和柳本

金森家 ・裏梅鉢・
秀吉・家康時代に飛騨高山に頑張っていた法印金森長近のあとは、美濃郡上八幡三万八千石の大名として存続していたが、頼錦の代に農民問題のこじれから、改易になってしまった。その後、その旧家で名族なのが惜しまれ、蔵米千余石が与えられて、再度日の目を見た。
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滝川家 ・丸に竪木瓜・
織田信長の部将滝川一益は、本能寺の変後、柴田勝家と呼応して秀吉を除こうとしたが、敗れ降伏。小牧・長久手の戦いでは秀吉に属して戦ったが、また敗れて、不遇のうちに死んだ。そのあとが旗本として徳川の世に残った。正流滝川氏のほかに、一益の部下として重んじられて家号を譲られた滝川家、木造氏から転じた滝川家があった。
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筒井家 ・星梅鉢・
洞ケ峠で有名な筒井順慶のあとは、伊賀上野二十万石までで、あと絶えてしまった。江戸時代にその支流数家が旗本として残った。その中心となったのは、家康の妹が再婚した筒井順斎のあとで、二千二百石を知行した。
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土岐家 ・桔 梗・
南北朝のころから、美濃一円に栄えた土岐氏の頼芸のとき、斎藤道三によって所領を奪われた。しかし、徳川の世になって頼芸の子頼次・頼元兄弟の子孫および、頼芸の弟治頼の子孫がそれぞれ旗本として残った。しかし、同じ土岐家ながら明智を称した庶流に躍進があった。わち土岐定政で子孫は沼田三万五千石の城主となっている。
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頼清┬頼忠-------政房┬頼芸┬頼次--------旗本
  │        │  └頼元--------旗本
  │        └治頼-------------旗本
  └頼基-------定明−定政−定義┬頼行---上州沼田
                 └頼義---旗本

畠山家 ・五七の桐・
清和源氏足利氏の一門。室町時代に管領として威をふるったが、戦国末期に没落。畠山政信は家康にまみえ、のち江戸で仕えた。はじめは三百石ほどの小身であったが、のちに増禄して、次代基玄は高家として遇され、元禄以降五千石を給された。もう一家能登畠山氏のあとも、三千百余石を知行する旗本として残った。
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【二つ引両/雪なずな】

別所家 ・三つ巴・
別所長治が秀吉に攻められて、播磨三木城と運命をともにした後、長治の甥重宗が用いられ、但馬で一万五千石を与えられるまでになった。しかし子吉治の代に改易となった。しかし、ゆえあって別家していた長男孫次郎の家が残り、二千五百石を食んだ。
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【竜胆車/二つ引両/裏菊/五七の桐】

北条家 ・丸に三つ鱗・
小田原北条氏が氏直のとき滅亡後、氏政の弟氏規は、河内に七千石を与えられて、のちに一万石となり大名家として存続した。もう一家、氏綱の娘をめあわされて、北条を称した、もと福島氏の綱成のあとが遠州掛川三万石の大名となっていたが、氏重のとき子がなく改易。氏勝の弟繁広が継いで旗本として残った。
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長氏(早雲)−氏綱┬氏康┬氏政−氏直
         │  └氏規-------------河内狭山
         └女子
          ‖−−氏繁┬氏勝−氏重
        福島綱成   └繁広−氏長---旗本

最上家 ・二つ引両・
最上家は出羽の最上から起こった名族で、斯波氏のあとである。最上義光は戦国時代をよく乗り切り、関ヶ原の役後、五十七万石の大大名になった。しかし、その後内訌があり、元和八年に所領喪失、近江に一万石を残すだけとなったが、それさえ半減して、大名からはずれ、以後旗本として存続した。
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【丸に竹に雀/五七の桐/十六葉八重菊】

山名家 ・二つ引両・
山名氏は南北朝時代足利氏に属して功を成し、子孫は大いに栄えたが、応仁の乱の一方の旗頭となった山名宗全(持豊)が死んで以後、奮わなくなった。山名豊国のとき家康に近づき、関ヶ原の合戦後六千七百石の知行を得た。
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【五七の桐七枚根笹/五七の桐】




戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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