筒井氏
六つ星 (大神姓か?) |
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筒井氏は、大和国添下郡筒井を本拠とし、興福寺に属する僧兵から身を興した武士である。興福寺衆徒の棟梁的地位を常に保ちつづけた、大和における最強の武士であった。筒井氏の出自については諸説あり、一つは藤原姓とする。河内国枚岡から春日に遷宮の時、春日社の神奴として供奉した藤原四家の一つとするもの。これに対し、大神姓とするものがある。はじめ大神姓で、のちに興福寺衆徒となる時、藤原姓になったとするものだ。その他に筒井氏の家紋が梅鉢であるところから、菅原姓とするものもあるが、これは明かに付会の説だろう。
筒井氏が飛躍的発展をするのは順永からだ。越智氏との争いを経て、大和国内における一大勢力となり、戦国大名化を遂げていった。ところが順昭は、1550年に没し、その家督を継いだのはまだ二歳の嫡子順慶であった。順慶は松永久秀に筒井城を追われ、筒井氏による大和支配は中断された。その後松永久秀が信長に背いて失脚した後、大和を与えられた。
1582年の山崎の戦いでは「洞ケ峠の順慶」といわれ、日和見主義の代名詞とされた。しかし、順慶は大和郡山城に居たのである。とはいえ、順慶の態度は光秀派の家臣もかかえ、親秀吉派とはいかなかったようだ。戦のあと、からくも秀吉から大和一国を安堵されたが、1584年三十六歳の若さで死んでしまった。その後は甥の定次が継いだが、伊賀上野に転封された。定次は関ヶ原の戦では東軍に属して、本領を安堵されたが家臣の提訴によって改易、さらに大阪城の豊臣秀頼に通じていたことが発覚し、子とともに自殺を命じられ筒井氏は断絶した。
■参考略系図
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