駿河今川氏
二つ引両(清和源氏足利氏流) 赤 鳥 |
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今川氏は、足利義兼の孫である吉良長氏の次男国氏が、三河国幡豆郡今川庄に居住し、今川を名乗ったのに始まる。しかし、国氏の子基氏を経てその子範国を今川氏の初代に数えるのが一般的だという。つまり、今川庄においてわずか三ケ村を領有するにすぎなかった在地領主が、範国の代にいたり、南北朝の争乱期で、足利尊氏に属し、各地で戦功を挙げ、一躍遠江・駿河の守護にのしあがったからである。
二代の範氏は父範国に先立って没し、嫡男氏家が継いだ。その氏家も早世し、結局範氏の二男泰範が今川三代を継ぐことになった。そのあと範政・範忠と続いた。
範忠のあとを継いだ義忠のとき、あたかも応仁の乱にあたり、義忠は東軍細川勝元につき、遠江守護で西軍となっていた斯波氏と対抗するため駿河に戻り、横地・勝間田といった国人領主との戦いを繰り広げた。そして、文明四年、遠江の塩買浜で横地・勝間田の残党の一揆に殺されてしまった。
そのとき義忠の嫡子竜王丸はわずか六歳であった。そして、竜王丸を擁する瀬名・関口・新野氏らのグループと、一族で義忠の従兄弟にあたる小鹿範満を推そうとする三浦・朝比奈・庵原氏らの二派に分かれての抗争が始まった。
この抗争は、竜王丸の伯父、すなわち竜王丸の母北川殿の兄である伊勢新九郎長氏(のちの北条早雲)の仲介により、竜王丸成人まで範満の家督代行ということで一応の収まりをみた。しかし、竜王丸が十七歳になっても範満は家督を竜王丸に戻そうとしなかったため、長氏は駿府館に範満を攻め、竜王丸の家督相続ということになり、竜王丸は氏親と名乗った。
氏親は領内に検地を行い、また分国法「今川仮名目録」を制定し、戦国大名への脱皮を遂げたのである。氏親は大永六年に没し、氏輝があとを継いだ。しかし、氏輝も天文五年二十四歳の若さで死んでしまったため、再び家督争いが持ち上がった。氏輝にはまだ子がなく、末弟の氏豊も同じころ死んでおり、僧籍にあったもう二人の弟が争うことになった。
一人は玄広恵深で、もう一人は梅岳承芳でである。恵深のほうが年長であったようだが、承芳が氏親の正室中御門氏から生まれているのに対し、恵深は側室福島氏から生まれていることもあって、家臣のほとんどは承芳側につき、恵深側は単なる反乱軍でしかなくなり、いわゆる花倉の乱で敗れ去った。
承芳が還俗じて義元となり、今川氏における全盛時代を現出したのである。義元は、三河・尾張にまで領国を広げていった。しかし、永禄三年五月、尾張の桶狭間で織田信長の奇襲を受け、討ち死してしまった。義元の死後、子の氏真が継いだが、家を支えることができず戦国大名としての今川氏は滅亡した。その後家康に召し出され、わずかに高家として江戸時代に名をとどめた。
今川氏には駿河とは別に、九州深題の要職を勤め、「難大平記」を著わした今川貞世を祖とする遠江今川氏が
戦国期まで存続していた。
●遠江今川氏
■参考略系図
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