最上氏
二つ引両
(清和源氏足利氏流) |
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最上氏は斯波義兼の次男・兼頼に始まる。斯波義兼は奥州深題だったが、そのころ最上地方の南朝方の勢力は強く、それを抑える必要から兼頼を出羽に入部させた。
兼頼は立石寺の根本中堂を再建したりして、民心をつかむことに成功し、また出羽国の南朝方の中心であった寒河江の大江氏を屈服させることに成功、兼頼入部の目的は果たされた。
兼頼はそのまま山形に定着し、土地の名をとって最上と改め、勢力を拡大していった。所領拡大の方法は、庶子を各地に分封することであったが、決められた土地を分割するというのではなく、所領を拡大していく方向での分封であった。結果、最上川以東の村山地方一帯は最上一族が蟠拠する状態となった。
戦国時代になって、近隣諸大名との衝突が始まり、最大のものは伊達氏の山形盆地侵入だった。両者の戦いは繰り返され、次第に伊達氏の圧迫を受けるようになった。
しかし、最上義光の出現によって危機は回避された。義光は天正十二年、一族の中での重鎮であった天童氏を滅ぼすことに成功し、翌十三年には内陸部の平定を成し遂げているのである。このころから、伊達・上杉・小野寺・武藤・最上諸氏の間で複雑な争いが展開され、一時は最上氏による庄内支配が行われた。
義光は葦名氏や佐竹氏らと謀って伊達政宗を包囲する戦略をとったが、それも天正十七年の摺上原の合戦における葦名氏の敗北によって、水泡に帰している。
その後、小田原参陣を経て、関ヶ原合戦後は五十七万石の大大名になった。しかし、義俊の代に内紛のために所領を没収され、近江に移されて一万石、さらに五千石に削られ高家として残った。
■参考略系図
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