別所氏
右三つ巴 (村上源氏赤松氏流) |
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別所氏は赤松氏の支族で、赤松則村の弟円光の子敦光が別所五郎を称したのに始まるとされる。宗家赤松氏が戦国時代に衰退してゆくのに代わって次第に勢力を伸ばし、東播磨八郡を領し、三木城を守っていた。旧赤松氏領国は、別所氏の他、西播磨では御着の小寺政職、英賀城の三木通秋、長水城の宇野政頼がおり、小規模戦国大名の群雄割拠の状態におかれていた。
別所長治が信長と交渉を持つようになったのは、天正五年からで、播磨西部の城主のほとんどが毛利に通じていたことからすれば、やはり異色の存在であったといえよう。長治は信長から中国征伐の先導を命ぜられ、総大将秀吉の下で、その期待にこたえ、秀吉は約一ケ月で播磨の平定に成功し、いったん安土に戻り、翌年、再び播磨に兵を繰り出してきた。そのとき長治は叔父吉親を名代として秀吉の陣所に出仕させ、毛利氏攻略の方策をいろいろと献議したが納れられず、長治のもとに戻った吉親は、長治に信長と手を切り、毛利方に属するべきだと説いたという。
もっともその原因を、ただ吉親の献策を秀吉が受け入れなかったからとするには、いささか疑問が残る。しかし、いずれにせよ長治は毛利方となり、秀吉の攻撃を受けることになったのである。これが、史上有名な三木籠城戦である。そして、二年にわたる籠城の末、城中の食糧が尽きて、長治は城兵の命と引き換えに自殺した。こうして別所氏の嫡流は絶えてしまった。
しかし、別所重棟は秀吉に属して、但馬国内に一万五千石を与えられて、大名に取り立てられている。重棟死後は子吉治が継ぎ、丹波園部一万五千石に移封されている。関ヶ原の合戦では西軍に属したが所領は安堵されている。とはいえ、後に仮病をもって参勤を怠ったことが知れ、改易となり廃絶した。
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
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