織田信長の時代、関東管領の重職に任命され、上野国厩橋城に在城した滝川一益の滝川氏は、その先祖がはっきりしない。一説には紀長谷雄の後裔とする紀氏族とするもの。あるいは、伴姓で、甲賀武士伴党の一族の末裔とする説がある。しかし、一益が近江甲賀郡の出身であることは大体において異論はない。おそらく六角氏配下の土豪クラスの在地領主だったのであろう。 一益は織田信長に仕え、各地の戦いに戦功を挙げ、永禄十二年尾張蟹江城を与えられ、翌年には北伊勢五郡を与えられている。 天正二年の伊勢長島一揆の討伐において中心的な働きをし、一揆鎮定後長島城主となった。その後長篠の戦いや摂津伊丹攻めに功を挙げ、さらに甲州征伐にあたっては先鋒となり、武田勝頼滅亡後は上野国と信濃国のうち佐久・小県の二郡を与えられて厩橋城に入った。 本能寺の変後、北条氏直と神流川で戦って敗れ、本領の伊勢長島に戻った。秀吉と勝家が争ったおりは勝家と結んで秀吉と対抗したが、勝家は賤ケ岳に敗れて滅び、一益は秀吉に降った。小牧の戦いでは家康および織田信雄に攻められて敗れ、一益は恥じて剃髪、長子一忠は追放された。 一益は天正十四年、越前国大野の寓居で不遇のうちに没した。六十二歳であったという。 ■参考略系図 |