河原町界隈
京都河原町は、京都の中心であり一番の繁華街だ。いつ行っても、街中は人並みで溢れかえっている。河原町通から桂川の方へ移動してすぐのところを流れるのが高瀬川で、その界隈が幕末志士の往来した木屋町である。
木屋町の通りに面した小学校跡が土佐藩邸址、また高瀬川を北方に上がったところにある京都市役所界隈が
長州藩邸址といったことから坂本龍馬をはじめ、中岡慎太郎、武市瑞山、吉村寅太郎。後藤象二郎らの土佐系志士、
桂小五郎、大村益次郎らの長州系志士といった勤皇倒幕派の志士にゆかりの旧宅、史跡が集中している。
河原町から木屋町一帯をそぞろ歩けば、そこかしこで幕末志士たちの残した足跡と出会ってしまう。
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土佐勤皇党を結成し、京都で活動していたころの寓居址、得意絶頂の武市瑞山の笑い声が聞えてくるような
気がするところだ。その隣は、土佐を脱藩し京都で活動、
のちに天誅組を結成して維新の魁となった吉村寅太郎の寓居跡だ。二人の寓居址より
南に歩いてすぐのところに池田屋がある。
明治維新を一年遅らせたといわれる池田屋事変、長州系志士たちの京都放火・天皇の長州移座計画を察知した
新撰組が襲撃した幕末の一大事件である。しかし、京都に放火し、そのドサクサに天皇を長州へ移そうなどという
計画は、あまりに無茶苦茶で粗雑に過ぎはしないだろうか?本当にそのようなことを実行しようとしたとすれば、
幕末の志士たちは一時の学生運動レベルの輩であったと思わざるをえない。
佐久間像山・大村益次郎遭難地 池田屋址 武市半平太の寓居跡 吉村寅太郎寓居跡
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龍馬が海援隊の屯所とし、みずからの下宿としていた酢屋址、その昔ながらの佇まいを見ているとヒョッコリと
龍馬が出てきそうな気さえする。現在、酢屋の前の通りは「龍馬通り」と呼ばれ、竜馬がいた二階は
こじゃれたギャラリーとなっている。
龍馬が下宿していた酢屋 酢屋は海援隊の屯所でもあった 春の高瀬川 本間精一郎遭難地
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高瀬川に面した土佐藩邸址、そのすぐ近くには彦根藩邸がある。勤皇系の藩、
佐幕系の藩が仲良く存在しているのも歴史の妙を感じさせる。
境内に龍馬の像があることから歴女の人気スポットとなっている土佐稲荷(岬神社)は、
かつて土佐藩邸内にあったもので、一般人の藩邸出入りは許されなかったが、
稲荷参詣者は特別に通り抜けを許可していたという。
土佐藩邸跡の碑 土佐藩邸前の高瀬川 土佐稲荷 稲荷境内の龍馬像
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坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かに襲われて命を落とした近江屋は、河原町のど真ん中にあり、いまはコンビニと
化している。襲撃をしたのは新撰組、京都見廻組といった説があり、さらに龍馬暗殺を企てた黒幕は薩摩藩という
説もある。薩摩藩の謀略説に心惹かれるのだが、竜馬暗殺の真相は永遠に闇の中である。
龍馬と慎太郎が襲われた近江屋跡 近江屋跡の碑 慎太郎の寓居跡 古高俊太郎の屋敷跡
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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