幕末志士の家紋

名前 家紋名称 家紋図版 立場
堂上公家
幕末における公家のイメージは、尊攘派浪士に脅されて意のままに動く軟弱な存在と思われている。 しかし、実際は天皇の側近として活躍、幕府と対等の立場を築くために行動するなど、 維新史に残した公家の足跡は決して小さなものではない。
三条 実美 唐菱花 藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる名家。尊王攘夷派の公家として活躍、公武合体派の公卿と結ぶ 会津・薩摩の政変によって京を追われて長州へと落ちた。 清華家
姉小路 公知 連翹 三条実美とともに攘夷派の先鋒として活躍したが、刺客に襲われて落命した。享年二十五歳、 下手人は薩摩の田中新兵衛といわれるが真相は謎のまま。 羽林家
岩倉 具視 笹竜胆 公武合体派として和宮降嫁を推進、尊皇攘夷派から非難され幽閉の身となった。薩摩の 大久保利通とクーデタを画策、倒幕の密勅起草を行った。 羽林家
中山 忠能 中山杜若 明治天皇の生母慶子の父、七男忠光は尊王攘夷派の急先鋒で天誅組の首領に担がれた。 羽林家
正親町三条 実愛 正親町連翹 幕府の通商条約締結に反対して「安政の大獄に連座、復活したのち公武合体運動を支持したことによって 尊王攘夷志士と対立、失脚。朝廷に復帰すると討幕派として行動、倒幕の密勅を薩摩に伝達した。 大臣家
大原 重徳 笹竜胆 安政五年(1858)、日米修好通商条約の調印のための勅許を求めて老中堀田正睦が上洛すると、 岩倉具視らと反対して謹慎した。のちに赦されると島津久光の護衛を受けて江戸に下り、攘夷の結構を迫った。 朝廷の国事御用掛として活動したが、勅書改竄が発覚して辞職、親幕派の追放を謀って幽閉処分を受けるなど、 なかなかの曲者であったようだ。 羽林家
壬生 基修 抱き杏葉 七卿落ちの一人。庭田重基の三男に生まれ、壬生家の養子となった。 尊王攘夷派として活躍、文久三年(1863)の政変で京を追われ長州へ下った。大政奉還ののち赦されて復権、 戊辰戦争が起こると会津征伐の越後口総督府の参謀となり功をあげた。 羽林家
四条 隆謌 四つ葉カタバミ 七卿落ちの一人。尊王攘夷派として活躍、文久三年(1863)の政変で京を追われ長州へ下った。 のち大宰府に移されたが、王政復古がなると復権、戊辰戦争では中国四国追討総督・大総督宮参謀・ 仙台追討総督・奥羽追討平潟口総督などを歴任した。 羽林家
東久世 通禧 竜胆車 村上源氏久我家の分家で、幕末の朝廷で尊皇攘夷はとして活躍した。 文久三年(1863)、八月十八日の公武合体派による政変で京を追われ、長州へ下った七卿落ちの一人。 羽林家



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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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