幕末志士の家紋
. ・土佐/肥前

名前 家紋名称 家紋図版 所属藩

吉田 東洋 丸に三つ引 土佐藩馬廻役吉田光四郎正清の四男に生まれた。船奉行・郡奉行をつとめたのち、 山内豊熙のもとで藩政改革につとめたが、病を得て一線から退いた。その後、豊信(容堂)が 藩主になると再出仕して藩政改革を行なうが保守派の反対によって失脚したが、のちに復職、。 山内容堂の下に復職で藩政改革に尽力した。 東洋は政治的には公武合体派であり、尊皇攘夷を掲げる武市半平太の土佐勤王党とは相容れず、 文久2年(1862)4月、土佐勤王党の志士那須信吾らに暗殺された。 坂本龍馬は、東洋暗殺事件のわずか15日前に土佐を脱藩していた。 土佐藩
後藤 象二郎 左藤巴 土佐藩上士後藤家に生まれた。後藤家は戦国時代の豪傑後藤又兵衛の後裔という。 叔父にあたる吉田東洋の塾に入り、板垣退助や岩崎弥太郎らとともに学んだ。 吉田東洋の推挙を受けて活躍したが、東洋が暗殺された後は失脚、 一時不遇の時期を送った。のちに返り咲くと、尊敬する叔父東洋を暗殺した土佐勤皇党を弾圧した。 その一方で、山内容堂のもとで殖産興業・「開成館」をの創立につとめ、 藩政の近代化に貢献した。岩崎弥太郎を登用し、坂本龍馬とも接近して脱藩の罪が許されるように尽力した。 龍馬の発案による大政奉還の建白を山内容堂に勧めたのも象二郎であった。 土佐藩
板垣 退助  五三の桐   土佐藩
谷 千城 左三つ巴 土佐藩
佐々木 高行 隅立四つ目結 土佐藩
土方 久元 一の角字 土佐藩
岩村 精一郎 抱き柏 土佐藩

副島 種臣 星梅   佐賀藩
大隈 重信 丸に剣花角   佐賀藩
大木 喬任 右三つ巴 佐賀藩


[志士の紋] ●勤皇系. ●佐幕系 [諸藩士の紋] ●薩長系 ●土肥系 ●佐幕系 ●幕臣の紋 ●大名の紋 ●公卿の紋 ●諸士の紋 ●幕末散歩




戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ




人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

丹波篠山-歴史散歩
篠山探訪
www.harimaya.com