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名前 |
家紋名称 |
家紋図版 |
立場 |
幕末四賢侯
それぞれ多難な時代に藩主となって藩政改革を行い、幕府老中阿倍正弘の要請もあって幕府政治にも参画した。
将軍職をめぐって徳川家茂と一橋慶喜が争ったとき慶喜を推して井伊直弼と争った。家茂が将軍職に
就くと幕政を握った直弼によって謹慎の身となった。その後、慶喜が将軍職につくと、四侯会議*を催した。
かれらは、藩主という立場から倒幕までの過激な思想はなかったが、のちに志士たちが行動する下地を
作った人々でもあった。* 薩摩は島津久光が参画。
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島津 斉彬 |
丸に十字 |
薩摩藩第十一代藩主。 |
薩摩 |
松平 慶永 |
三つ葉葵 |
福井藩第十四代藩主、春嶽と号す。 |
越前 |
山内 豊信 |
細三つ柏 |
土佐藩第十四代藩主、容堂と号す。 |
土佐 |
伊達 宗城 |
伊達笹 |
宇和島藩第八代藩主 |
宇和島 |
幕府首脳
世界に類のない平和な時代を現出した徳川幕府、その要因の一つとして島国であった国土を鎖国化したことが挙げられるだろう。
その二百年にわたる呑気な眠りも、世界の大航海時代から帝国主義へと狂奔する熱気のなかで破られざるをえなかった。
内憂外患に揉みしだかれた幕末日本の舵取りに苦慮した幕府首脳たち、
かれらもまた国の行く末を案じる志士ではなかったか。
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井伊 直弼 |
橘 |
彦根藩主、幕府大老。開国論者で、攘夷論を振りかざす水戸斉昭と対立。将軍継嗣問題で
紀州家茂を推し、斉昭の子一橋慶喜を推す一派と政争を展開した。それが安政の大獄を引きこす要因となり、
で多くの政敵、志士を弾圧した。万延元年(1860)、尊皇攘夷の志士らによって桜田門外で暗殺された。
傑出した人物ではあったが、有為な人材を闇に葬り去った大獄をなしたことは悪人の謗りを免れないだろう。 |
大老 |
阿部 正弘 |
違い鷹羽 |
備後福山藩主、天保十四年、弱冠二十五歳で老中になると水野忠邦が行った天保の改革
後の幕政の建て直しに尽力する。ほどなく老中主座となり、有能な外様藩主に意見を求めるなどしながら
文字通り多事多難な内政外交に努めた。嘉永七年、日米和親条約などを結び、二百年にわたった鎖国の禁を解いた。
藩主として国元に帰ったのは一度きりという激務がたたって三十九歳の若さで世を去った。正弘が長命であれば井伊直弼の
安政の大獄はなかったかも知れない、惜しい早世であった。
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老中 |
安藤 信正 |
石持に上り藤 |
陸奥国磐城平藩主、幕府老中。万延元年(1860)、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたのち幕政を主導。
日普修好通商条約の締結など外交問題を処理、一方で家茂の正室に和宮を迎え公武合体計画を推進したことから
坂下門外で尊王攘夷派の志士に襲われ失脚。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加して、新政府軍に対抗した。
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老中 |
板倉 勝静 |
九曜巴 |
備中松山藩主、幕府老中。桑名藩主松平定永の八男で板倉勝職の養嗣子に迎えられ、
山田方谷を抜擢して藩政改革を実行した。それが認められて幕閣に連なったが、安政の大獄では井伊直弼に
反対の立場をとったため職を罷免された。直弼の死後に老中となり多難な幕政にあたり、徳川慶喜が将軍になると
新任を得て大政奉還の実現に努めたが、鳥羽・伏見の戦ののち隠居した。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の参謀となり
函館まで転戦した。
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老中 |
牧野忠恭 |
三つ柏 |
越後国長岡藩主、幕府老中。
三河国西尾藩主・大給松平乗寛の三男に生まれ、牧野忠雅の養子となった。
文久二年(1862)に京都所司代となったが辞職、続いて老中となり諸外国との折衝に努力した。
家臣河井継之助を登用して藩政改革を行い、戊辰戦争が始まると家老継之助は中立的立場を模索したが破れ、
北越戦線の中心的存在として行動した。
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老中 |
補遺
平穏な時代であれば大過のない殿様人生を送ったであろうが、多難な時代に生まれ合わせたばかりに
否応なく歴史の荒波に翻弄されることになった。
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松平 容保 |
三つ葉葵 |
保科正之を祖とする徳川家親藩である陸奥国会津藩主。美濃国高須藩主松平義建の六男に生まれ、
嘉永五年(1852)に会津藩を継ぐ。桜田門外の変後、幕政参与に任じられ、
さらに京都守護職という貧乏籤をひかされた。上洛した容保は孝明天皇の信任をえ、配下となった新撰組を
使って京の治安維持に努めた。大政奉還ののち、戊辰戦争が起こると奥羽越列藩同盟の中心となり、
新政府軍に抗戦して会津に官軍を迎え撃った。結果として朝敵の汚名を被ったが、死ぬまで
孝明天皇からの宸翰を肌身離さず持っていた逸話は有名。
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親藩 |
毛利 敬親 |
一文字三つ星 |
幕末の長州藩主。藩内が尊王攘夷派と幕府恭順派に分かれて対立したとき、
どちらが主導権を握っても「そうせい、そうせい」と言うばかりだったことから「そうせい公」とあだ名される。
藩主として積極的に国政に口を挟まなかったことが、長州藩を最終的に歴史の表舞台に押し上げたともいえ、
ある意味では名君だったかも。
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外様 |
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