伏見-寺田屋
京都の南、酒造りの町伏見にある船宿。坂本龍馬が定宿としたところで、倒幕の魁となった寺田屋騒動と伏見奉行所捕り方による龍馬襲撃という、
幕末史をいろどる二つの事件の舞台となった。
幕末当時と変わらぬ佇まいを残すと
いわれる寺田屋は、近代日本の夜明けの地ともいえるところだ。
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寺田屋騒動は、文久二年(1862)四月、薩摩藩島津久光が薩摩藩兵を率いて上洛したとき、薩摩の有馬新七ら尊皇攘夷急進派の面々と諸国浪士らが倒幕計画を実行しようと寺田屋に集まった。久光は過激な計画を中止させるため、奈良原喜八郎らを派遣させた。しかし、喜八郎らの説得は失敗したうえに双方限愛となってしまった。急進派は有馬をはじめ七人が斬死し、重傷を負った二人も翌日切腹、事件は薩摩藩士の同士打ちに終わった。有馬ら薩摩藩の尊皇攘夷急進派九人は、のちに「薩摩九烈士」と呼ばれて顕彰された。
余談ながら、喜八郎の兄喜左衛門は生麦事件を起こした人物として知られている。
・写真:船着場址
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一方の龍馬襲撃事件は、薩長同盟の締結した翌々日にあたる慶応二年(1866)一月二十三日、龍馬が寺田屋に投宿していることを察知した伏見奉行配下の捕り方が、寺田屋を急襲したものである。そのとき、入浴中であった恋人のおりょうが異変にきずに気付き、素っ裸のまま急を二階にいた龍馬に知らせた。龍馬はピストルで応戦するなど乱闘となり、手傷を負いながら危ういところを脱出した。その後、龍馬はおりょうとともに薩摩に逃亡し、傷の治療をしながら二人で霧島への旅行を楽しんでいる。
これが、わが国における新婚旅行の始まりといわれている。
・写真:寺田屋 /寺田屋の提灯に描かれた龍馬を暗示させる紋
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かつて、淀川を上下する三十石船・二十石船が行き交う港町として賑わった伏見、どこからともなく漂ってくる
酒蔵からの酒の香とあいまって、なんともいえない風情を醸しだしている。また伏見界隈には、全国に約四万あるといわれるお稲荷さんの総本社で山上まで続く赤鳥居が見事な伏見稲荷大社、
豊臣秀吉が桃山文化を花開かせた伏見城など周辺には見どころが多い。
・写真:酒蔵の塀 /伏見稲荷大社の鳥居
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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