蛤御門を訪ねる

文久三年(1863)の政変で京を追われた長州藩は、ふたたび天皇を長州陣営に取り込むため京に乗り込もうとした。 その急先鋒の久坂玄瑞らと、慎重派の桂小五郎・高杉晋作らの意見が対立していた。そのような情勢下、 六月五日に起った池田屋事件の報がもたらされた。藩士が殺されたことを知った急進派の面々は激昂し、 慎重派の制止を振り切って挙兵、京をめざして出陣した。
長州藩の動きを察知した幕府をはじめ、薩摩藩・会津藩らは連署して意見書を朝廷に建白、禁裏御守衛総督を勤める 一橋慶喜は長州に対して撤兵を呼びかけた。しかし、御所に攻め寄せた長州兵藩兵と、会津・桑名藩兵とが蛤御門に おいて激突した。 蛤御門 御所を守る幕府方の兵は八万、攻める長州軍は三千という兵力であったが、長州勢は中立売門を突破 して京都御所内に攻め入る勢いを示した。これに対して、援軍に駆けつけた薩摩兵が長州兵の進撃を阻止したことで 形勢が逆転、ついに長州軍は京に放火すると敗走した。このときの火事によって、京の町の多くが焼け野原となり、 いまでも京都において「この前の火事」といえば蛤御門の変の大火をさすのだという。

京都御所の周囲には九つの門があり、蛤御門は西門の一つであった。もともとの正式名称は新在家御門であったが、 天明の京都大火において御所が炎上したとき、滅多に開かなかった新在家御門が開いたというので、 「堅く閉じていた口が大火によって開いた」…蛤のような門だということで「蛤御門」と呼ばれるようになったと 伝えられる。 蛤御門の変で長州藩は久坂玄瑞をはじめ、来島又兵衛、入江九一、寺島忠三郎ら有為の藩士を失ったうえに、 内裏や禁裏に向けて発砲したことから朝敵の汚名を被った。さらに、京都守護職松平容保は長州系の尊攘急進派弾圧に 乗り出し、事態は第一次長州征伐へと動いていった。
・写真:蛤御門
京都御所 建礼門
・写真:京都御所 (右:建礼門)

一条邸址 仙洞御所西門
・写真:一条邸址・仙洞御所西門 / →京都御所概略図
内裏の門  
蛤御門の変で敗れた長州は、まったくの八方塞がりとなり、長州征伐に降伏したのちは佐幕派(俗論派)によって 藩政が行われた。一方で、長州藩士の多くは薩摩と会津を憎悪し、やがて高杉晋作の起こしたクーデタで 佐幕派が追われると、ふたたび長州は一方の台風の目となっていくのである。 蛤御門 朝廷も幕府も敵となった長州は、みずからが生き残るため、倒幕への道をひた走っていくことになった。 蛤御門の柱にはいまも当時の弾痕が残り、徳川幕府崩壊を奏でる挽歌のはじまりは蛤御門の変であったのだな〜、 と実感されるのである。

・蛤御門内部より西方を見る
御所に攻め寄せた長州軍は、道路を隔てた西方の家々をバリケード代わりとして散開したことであろう。 御門を守備する幕軍は長州兵の決死の形相を目の当たりに見て、気圧されたのではないか。  
 




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