【補遺_5】 六郷氏/和田氏


六郷氏 出羽国六郷城【三つ亀甲の内七曜】
 六郷氏は、藤原氏二階堂氏の後裔とする点では一致するが、系譜には不明の部分が多い。二階堂氏は、鎌倉中期に陸奥国に所領えお有しており、六郷の地頭職も有していた可能性がある。おそらく室町中期頃二階堂庶流の某が出羽に移り、六郷に土着したものと推定される。
 六郷城が築城されたのは道行の時と伝えられ、その子政乗の動向は各種史料に記載されている。天正年間六郷氏は小野寺氏の被官となっていたが、その位置が戸沢氏や秋田氏などに近かったため、独立的性格が強かった。天正十八年太閣検地の時、六郷一帯に検地反対の一揆が発生したが、六郷政乗は本領の内約五千石を安堵された。江戸時代に入って、出羽国本荘に二万石を与えられ、幕末に至り、明治維新を迎えた。

道行−政乗┬政勝−政信
     └政秀−政慶
和田氏 摂津国高槻城【七 曜/木瓜に巴
 清和源氏といわれ善積氏を称し、近江国甲賀郡和田村を本貫とする国人。将軍足利義輝に仕えると伝えるが、中央の記録では義昭以後のことしか判明しない。
 永禄八年、三好三人衆・松永久秀らは義輝を殺害し、義輝の弟覚慶も奈良に幽閉されたが、細川藤孝ら幕府近習の手引きで脱出、甲賀の和田惟政の館へ逃れた。覚慶は還俗して義昭と名乗り、このとき惟政は義昭の直臣となった。その後の義昭の流寓に従い、義昭が信長の尽力で入京を果たしたとき、信長からその忠節を認められて、摂津半国を与えられ、芥川城主となった。
 惟政はキリスト教に帰依し、永禄八年入京した宣教師フロイスを庇護し、キリスト教の近畿普及に重要な役割を果たした。また同年三好三人衆が反撃してきたときには、明智光秀らとこれを撃退している。  天正元年、義昭が信長と対立して京都に反旗を翻すや、惟政は義昭に属して、信長に抗した。信長は義昭を降伏させた返す刀で、荒木村重をして惟政を攻撃させ、惟政は敗れて処刑された。

惟助┬惟政−惟長
  └定教
安国寺/甲斐氏/黒川氏/新発田氏/多賀氏 種子島氏/田丸氏/富田氏/土持氏/土居氏
中川氏/長野氏/南条氏/仁賀保氏/波多氏/堀内氏 本堂氏/松永氏/薬師寺氏/矢島氏/遊佐氏


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