【補遺_3】 中川氏/長野氏/南条氏/仁賀保氏/波多氏/堀内氏


中川氏 摂津国茨木城【抱き柏/中川柏
 摂津三島郡茨木の土豪。天文年間は茨木氏の被官であったらしい。重清の子清秀は、茨木氏没落ののち、茨木城を修築してこれに拠った。永禄期は三好氏に属していたと推定される。その後、池田勝正に仕え、摂津高槻城主和田惟政が池田知正と戦ったとき、惟政を討ちとったのは清秀とされる。
 天正元年荒木村重が摂津一国を与えられると、これに属したが、村重が信長に背く直前に信長の麾下に入り、茨木城主を安堵された。天正十年の本能寺の変後、山崎合戦では秀吉の戦鋒となって戦功をたてている。翌年の賤ケ岳の合戦には、秀吉が信孝の大垣城攻めに向かった後を守備していたが、勝家方の佐久間盛政に攻められ、清秀は奮戦およばず敗死した。晩年の所領は四万石だったという。
 清秀の長子秀政は、父の跡を継ぎ、摂津茨木城主として六万石を領した。秀吉に仕えて、小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州征伐、小田原の役に従軍している。朝鮮出兵には渡海して水原城の守備にあたったが、伏兵に襲われて横死した。家督は弟秀成が相続。文禄二年、豊後岡城七万石に転封され、関ヶ原の合戦では初め西軍、のち東軍に移って、所領は安堵された。

重清−清秀┬秀政
     └秀成
長野氏 上野国箕輪城【檜 扇】
 名字の地は上野国群馬郡長野郷、石上姓で在原業平の子孫と伝える。関東結城合戦では、関東管領・守護上杉氏に属している。また、長尾景春の乱には、上州一揆の旗頭として加わっている。長野氏は西上州を中心とする上州一揆の一員として、一揆結合の要として上杉氏の下であえ威力を伸ばしたのである。
 十六世紀初頭に尚業が箕輪城を築き、これを拠点に次第に勢力を拡大。尚業の二男方業は厩橋城を築いて東上野に進出、惣社・白井両長尾氏を圧迫していく。大永七年、憲業・方業兄弟は惣社長尾氏を攻めて屈服させている。永禄三年から翌年にかけての越後上杉氏の関東出兵には、長野氏は箕輪衆、厩橋衆を率いて参陣した。しかし、厩橋城は上杉氏に接収された。他方、甲斐の武田信玄が西上州の制圧を目指して、吾妻郡、碓氷郡の諸将をつぎつぎに降るなか、長野業政はよく孤軍奮闘している。しかし、その子業盛のとき信玄の大軍が箕輪城を攻め、奮戦むなしくついには落城、長野氏は滅亡した。

在原業平………業経−尚業┬憲業−業政−業盛
            └方業
南条氏 伯耆国羽衣石城【夕 顔】
 塩冶高貞の子高秀は、伯耆羽衣石に城を築き、南条伯耆守貞宗と名を改めた、とする。南条氏に関する文書に南条系図があり、佐々木塩冶氏にはじまると伝えている。小早川文書の高師直施行状案に「小早河中務入道道円の伯耆国富田庄内天方郷壱分地頭職」を調査し、小早河道円にもとどおり付与するという、伯耆国の実務を以来されたのは、南条又五郎であった。又五郎は伯耆国にあって、守護の役割を果たしていたと推定される。しかし、この南条又五郎と羽衣石に拠った南条氏との関係は不明。
 南条氏は十四世紀中ごろから、東伯耆に勢力を拡大し、戦国期を経て豊臣政権下の大名となった。関ヶ原の役では西軍に加わり、羽衣石城は廃城となった。

塩冶高貞−景宗----宗元−元続−元忠
    (高秀)
仁賀保氏 出羽国山根館【一文字三つ星】
 仁賀保氏は、甲斐源氏小笠原氏流の大井朝光の後裔と伝えられる。ただし、家紋の一文字三つ星は大江氏流の家紋であり、また、仁賀保氏の通字「挙」は大江氏の通字でもあることから、大江氏との関連も考えられる。いずれにしても、大井朝光の子友挙が信濃国大井荘から出羽国仁賀保に移ったのを始めとするらしい。戦国期には由利十二頭の中心的存在であった。
 しかし、由利郡内の領主はいずれも小勢力であり、近隣勢力の影響を受けざるをえなかった。仁賀保氏は庄内の大宝寺氏の影響を受けていたため、小野寺氏との関係が密接であった矢島氏と抗争を繰り返した。  天正十八年、仁賀保挙誠は豊臣秀吉から所領を安堵された。その後常陸国武田に移封されたが、ふたたび仁賀保で一万石を与えられた。
 挙誠の跡を継いだ良俊は七千石を知行し、弟誠政に二千石、誠次に千石を分知したが良俊に嗣子なく断絶。弟ふたりの系統が徳川旗本として存続した。

大井朝光−友挙…………重挙−挙晴−挙誠┬良俊
                   ├誠政
                   └誠次
波多氏 肥前国岸岳城【二つ引両に三つ星】
 波多氏は、平安末期から肥前松浦地方で活躍した上松浦党の最大の一族で、東松浦郡波多村を中心に佐志氏から分かれて成立した。南北朝期の当主波多披は武家方少弐頼尚から軍忠状を受け、また宮方の五条頼元から本領安堵状を受けるなど、両勢力間にあって、複雑な動きをしめしていた。その後今川了俊から松浦郡波多村地頭職を安堵されて、これを本拠として発展した。
 戦国末期には波多親が当主であったが、この段階でも東松浦半島の諸領主は、波多氏を中心に結集しているといえども、個々の地域領主の集団という古い体質のままであった。そのため、秀吉の九州再封により、波多親は上松浦郡を与えられたが、たとえば上松浦党の有浦氏などの所領はかなり独立しており、直接秀吉から朱印地を認められていた。
 親は天正十六年上洛し、翌年従五位下三河守となり、次第にその領主としての地位を確立した。しかし、朝鮮出兵に際して鍋島直茂に従って出陣したが、文禄二年の講和交渉のため一時停戦したとき、親が熊川に留まり戦わなかったとの理由で、秀吉から知行を没収され常陸に追放された。


堀内氏 紀伊国新宮城【五三の桐】
 清和源氏源為義の子、新宮十郎行家の後裔と称す。また行家の姉丹鶴姫の子、熊野別当湛増の後裔とする説もある。熊野新宮村に住し、新宮社地を領して、南北朝時代には熊野水軍として南朝方に属す。室町期には畠山氏の被官となる。永禄のころには近隣の土豪有馬氏らを糾合して口熊野方面に進出、氏善の代には三鬼氏を遂い、天正年中には毛利氏からの誘いもあったが、信長に属して、紀伊のうちに二万石を与えられた。
 天正十年、本能寺の変・山崎の合戦で軍戦を挙げ、七千石を加増されたが、天険を頼んで秀吉に属さず自立、秀吉の紀州征伐にも新宮城に拠って抵抗した。しかし、ついに屈して降伏、秀吉から新宮四万石を安堵された。天正十八年の小田原攻めにも従軍、朝鮮の役では水軍として出動、竹島の先陣争いや蘇川古城防衛に功があった。
 関ヶ原の戦では西軍に属して、伊勢口の守りにつき、鳥羽城主の岳父九鬼嘉隆と協力して新宮城に籠城した。しかし敗報を聞いて遂電、家康より領地没収された。子孫は藤堂氏に属した。


安国寺/甲斐氏/黒川氏/新発田氏/多賀氏 種子島氏/田丸氏/富田氏/土持氏/土居氏
本堂氏/松永氏/薬師寺氏/矢島氏/遊佐氏 六郷氏/和田氏


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