【補遺_2】 種子島氏/田丸氏/富田氏/土持氏/土居氏 |
種子島氏 大隅国赤尾木城【三つ鱗】 種子島氏の祖は平清盛の孫行盛の子信基であるとしている。すなわち、行盛の子がその母とともに鎌倉に逃れていたところを北条時政に助けられ、その養子となり時信と名乗った。時政の執奏によって種子島に封ぜられ信基と改めたという。 戦国時代の天文十二年、種子島の西村小浦にポルトガル船が漂着し、時尭は乗組員から二挺の鉄砲を買い上げた。これが世にいう鉄砲伝来である。十六代久時のとき、秀吉によって種子島は島津氏に与えられ、久時は薩摩の知覧院に移されている。しかし、のちに独立した大名としてではなく、島津の重臣として種子島に復している。 |
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田丸氏 伊勢国田丸城【八段の鞠挟み】 伊勢国司として、また国司大名として有名な北畠氏からの分かれである。北畠材親の三男具忠が分割相続し、田丸城に住し、その地名をとって田丸氏と称した。もっとも異説もあって、具忠の父は材親ではなく、一代前の政郷とするもの。そうではなく、清和源氏愛洲氏の流れとする考え方もある。 田丸氏歴代のなかで、もっともはなばなしい活躍をしているのは具忠の子直昌である。直昌は蒲生氏郷の妹婿とされている。北畠氏の没落後、信長に属し、はじめは蒲生氏郷の与力となっていたが、のちに蒲生氏を離れて秀吉に直仕することになった。信州川中島で四万石の大名となり、秀吉死後、東美濃岩村城主となった。 関ヶ原の戦いのとき、はじめ家康に従って上杉征伐に従ったが、途中、小山の陣での評議のとき、西軍につくことを宣言し、結局は所領を失っている。子直茂は前田利長に寄寓して、その子孫が前田家の重臣となった。 |
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富田氏 伊勢安濃津城【丸に違い鷹の羽】 富田氏は、佐々木秀義の五男隠岐守義清の五代の孫にあたる義泰のとき、出雲国富田庄に居住し、その地名をとって名字にしたという。義泰の子師泰が出雲国富田城を築いたといわれ、その子秀貞のとき南北朝の争乱にあたり、秀貞は出雲において戦死している。戦国期の当主は知信および信高で、秀吉の使者として大名の間を往復している。のち伊勢安濃津城主となり五万石を与えられている。 |
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土持氏 日向国松尾城【三つ割若松】 八条院領日向国富荘は、日下部氏によって開発されたという。十一世紀後半、宇佐社人土持氏が日下部氏久仲の娘を妻として、その所領を得たという。土持氏は宇佐宮神官の出自をもつ田部氏を祖とし、宇佐神宮の日向進出によって成立した。 南北朝期、土持宣栄は足利尊氏方の伊東氏に従って行動している。また尊氏は畠山義顕をもって国富庄の宮方に対応し、伊東氏、土持氏はこの配下となっている。やがて島津氏が北上して畠山氏を追放、さらに山東地方に進出した。土持氏は伊東氏に協力して防戦したが、島津氏の勢力に屈した。その後伊東氏と対立抗争し、庶流は次第に伊東氏に侵奪され、財部土持氏も滅亡、わずかに県土持氏が延岡に残った。 天正期、島津氏によって大友氏・伊東氏の勢力が一掃され、県の土持親成は領土を維持したが、大友宗麟が日向に伊東氏との勢力を回復するため、島津氏と決着をつけるべく南下し、その前哨戦として土持親成を攻め、土持氏は敗れ滅亡した。 |
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土居氏 伊予国大森城【一枚楓】 土居氏の出自は、紀伊国牟婁郡土居の鈴木党に発すると伝えられる。鈴木重家は文治五年奥州下向にあたり、嫡子千代松(太郎清行)を伊予の河野通信に依頼したという。清行は宇和郡土居中村を与えられて土居氏を名乗ったという。宇和庄は鎌倉依頼西園寺氏の荘園で、在地の開発領主が名主的土豪として西園寺支配にくみこまれたとの説もある。 十一代清宗は大森城を根拠として活躍する、文歩兼備の勇将であった。西園寺実充は清宗をもっとも頼みとし、北の宇都宮、南の一条氏、海上からは大友氏の進出に悩まされていたが、侵攻のあったときは清宗は常に出兵して敵を撃退した。しかし、永禄三年大友氏の攻撃には、奮戦むなしく子清貞とともに討死した。 土佐の一条氏に人質となっていた、清宗の三男清晴の子清良が帰城。勢力伸長に努力した。清良は豊臣時代、関ヶ原の戦いを乗り切り、寛文六年、八十四歳で死去した。子孫は代官、庄家となって存続した。 鈴木重家………重宗−清宗┬清貞 └清晴−清良 |