【補遺_4】 本堂氏/松永氏/薬師寺氏/矢島氏/遊佐氏 |
本堂氏 出羽国本堂城【八ついしぶみ】 本堂氏は、清和源氏為義流と伝えられ、陸奥国和賀郡に移住していた源忠頼の三男忠朝が、本堂に土着したのに始まるといわれる。とはいえ、和賀基義が足利尊氏から山本郡内安本郷・阿条字郷・雲志賀里郷を勲功の賞として宛行われたのは観応三年のこと。和賀氏がこの地と関係を結ぶのはこれ以降で、本堂氏は和賀氏の庶流として、本堂に移ったものと推定される。したがって、その系譜についても義房以前は不明である。 戦国期の本堂氏は、戸沢氏や小野寺氏の勢力に挟まれ、微妙な立場にあった。義親は戸沢氏との戦いで戦死、頼親は金沢城主と戦い戦死、朝親も波岡で戦死している。 忠親は、小田原に参陣し。秀吉から本領のうち、八千九百八十三石を安堵されている。また忠親は和賀秀親に実子がなかったため、和賀氏を継いでいる。忠親の跡を継いだ茂親は、関ヶ原の合戦で徳川方につき、戦後常陸国志筑八千五百石に移され、子孫は江戸幕府の交代寄合として存続した。 義房−義親−頼親−朝親−忠親−茂親 |
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松永氏 大和国信貴山城【蔦】 出自には諸説あって確証はないが、その姻戚関係から考えて畿内の出身であることは間違いない。久秀は若年から三好長慶の右筆となって活動していたと推測され、天文十一年には長慶の部将として南山城に進駐している。弟長頼も軍事的才幹をもって長慶に仕え、久秀よりもはやく独立の部将として活動している。天文二十二年、長慶が将軍足利義輝を京都から追放すると、久秀は伊勢貞孝らと京都の庶政を採決している。弟長頼は丹波八木城主として守護代内藤氏の名跡を継承する地位にあった。 永禄二年長慶から大和方面の軍事を委任されて、信貴山城主となり、翌年には大和をほぼ制圧、信貴山城に天守閣を造営している。長慶の没後、三好三人衆と共謀して将軍義輝を暗殺、のちに三人衆と対立、その内訌で東大寺大仏殿を炎上させている。永禄十一年織田信長と和睦して大和一国を安堵されたが、のちに信長に離反したが降伏、大和を安堵された。しかし天正四年またもや信長に反旗をかかげ、信貴山に籠城。織田信忠の包囲の前にあえなく陥落。名物の平蜘蛛の釜を砕いて自殺した。連歌師貞徳は孫にあたる。 ……… 某┬久秀−永種−貞徳 └長頼 |
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薬師寺氏 山城淀城【五つ石】 藤原氏秀郷流の小山氏の後裔という。小山長村の子政村(小山朝政の子ともいう)が薬師寺五郎三郎を名乗って薬師寺氏の祖となった。 摂津守護代薬師寺与一元一は、武家文人として知られ、教養豊かな人物であった。永政五年、元一は淀城に拠って、額田宗朝らと主君細川政元に背いた。政元は元一の弟薬師寺長忠らを派遣して元一を討たせた。攻防ののち、額田宗朝が討死、宗朝の兄四宮長能は自刃し、元一は捕われの身となった。元一はかつてみずからが建立した京都舟橋の一元院に幽閉された。元一は最後に臨み、つぎのようにいって切腹したという。 皆々様ご存知のごとく、我は一文字好みにて薬師寺与一 名乗りも元一、この寺も一元院と名付けたり されば腹をも一文字に切るべし …と。二十九歳であったと伝える。 小山政光┬朝政−長朝−長村−政村−−−元長┬元一 └政村 └長忠 |
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矢島氏 出羽国根城館【松皮菱】 矢島氏は仁賀保氏と同族と伝えられ、大井氏とも称しているので、甲斐源氏小笠原氏流の大井朝光の後裔と思われる。 戦国期の矢島氏は、仁賀保氏と並ぶ由利郡の二大勢力であり、両者は抗争を繰り返した。矢島満安と仁賀保氏の抗争は、永禄三年から文禄元年までの間に十数回に及んでいる。矢島氏は由利諸党の中では孤立化した状態にあり、満安は仁賀保氏との抗争が激化したため、本拠を根城館から新荘館に移したという。 天正十六年、矢島の地は仁賀保氏の領地となったという。天正十八年の小田原参陣、それに続く太閣検地、翌十九年の九戸の乱などに矢島氏の名は見い出せない。一方仁賀保挙誠は豊臣秀吉から所領を安堵されているが、そのなかには矢島地域も含まれており、この段階で満安は矢島の支配権を失っていたようだ。満安は秀吉から所領を安堵されなかったものと思われる。 文禄元年、満安は由利郡の諸氏の攻撃を受け、西馬音内に逃れた。翌二年西馬音内城主の小野寺茂道は、小野寺義道の疑いを受け軍勢を向けられ、満安は自害し、矢島氏は滅亡した。 |
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遊佐氏 河内国若江城【木瓜】 藤原秀郷の末と伝えられ、出羽国飽海郡遊佐郷を本貫とする畠山氏の被官。南北朝期に畠山氏が奥州探題となったとき臣従したらしい。永徳二年畠山基国が河内守護に補任されたときは遊佐長護が守護代に任じられている。以後、本宗は代々河内守の官途を称した。 長禄四年、守護が義就から政長に更迭されて畠山氏の家督争いが激化すると、遊佐氏も両派に分かれ、国助・就家は義就に、河内守長直は政長に属して争った。応仁の乱前後を通して、軍事的には義就派の就家側が終始優勢で、河内を支配していたのはこの系統である。 戦国期の当主は長教で、かれは軍略にすぐれ畠山氏の実権をにぎり、三好長慶も彼のために苦杯をなめたが、長慶は和睦して長教の娘を娶り、姻戚関係を結んだ。しかし、それから三年後、長教は反長慶派の刺客によって、暗殺されてしまった。その子信教は高政に仕えて守護代となり、永禄十二年高政を遂い、その弟昭高を暗殺したりしたが、信長に殺された。 |