秀吉に取り立てられた大名家
小西氏/新庄氏/仙石氏/田中氏/寺沢氏/富田氏/藤堂氏/中村氏/西尾氏 |
小西氏 【久留守】 和泉堺の豪商出身の大名。行長は小西隆佐の子で、はじめ父の縁故で備前の宇喜多氏に近昵したが、のち秀吉に商才を見込まれ、奏者として登用された。天正十二年摂津守に任じられた。その後九州征伐、肥後の国人一揆鎮圧などの功により、肥後宇土城十五万石の大名となった。朝鮮の役でも活躍、秀吉死後の帰国退却にさいしても、朝鮮の名将李舜臣を破って無事九州に帰着している。関ヶ原の合戦には西軍の要員として活躍したが敗北、囚われの身となった。クリスチャンであったかれは自殺をせず、三成らと京都で処刑された。 |
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新庄氏 【左藤巴】 新庄氏の名字の地は近江国坂田郡新庄で、藤原秀郷流。すなわち俵藤太秀郷の後裔と名乗っている。直寛・直昌はともに合戦で討死、直頼が秀吉に仕えた。各地を転戦し、摂津国高槻で三万石を与えられた。関ヶ原の合戦には諸般の事情で西軍に属し、戦後失領している。一時蒲生氏に預けられたが、のちに三万石の大名として復活している。 直寛−直昌−直頼−直定 |
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仙石氏 【永楽銭】 仙石氏は清和源氏頼光流(土岐支流)といわれている。久盛が仙石某の養子となって仙石氏を継いだというだけで、仙石某の系譜については所伝がない。秀久が秀吉に仕えて飛躍的に発展、四国征伐後讃岐一国を与えられた。のち戸次川の敗戦の責任をとわれ所領没収。小田原征伐に手柄をたて、帰参を許され信濃国小諸五万石の大名として復活した。 久盛−秀久┬秀範 └忠政-------→大名家 |
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田中氏 【左三つ巴】 戦国期、田中吉政の活躍で有名になった田中氏は近、江国高島郡田中村の出身という。吉政ははじめ宮部継潤に仕え、やがて羽柴秀次に仕え、秀次没落後秀吉に仕えている。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、三成を捕えた功により、筑後柳河三十二万五千石の大大名となった。しかし、子忠政のあと接嗣子がなく断絶の憂き目にあっている。 重政−吉政┬吉次 └忠政 |
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寺沢氏 【蟹】 寺沢氏は紀長谷雄の子紀淑の末孫で、美濃国に居住し、その後分かれて尾張国に移住したといわれる。広正ははじめ織田氏に仕え、のち秀吉の家人となり、播磨国伊保庄に所領を与えられる。長子広高も父とともに秀吉に仕え志摩守に任じられ、六万一千石を領した。のち朝鮮出兵後二万石を加増され八万石となった。関ヶ原の役には東軍で参加、戦功により肥後天草四万石を加増され、十二万石の大名となったが、跡を継いだ堅高が島原の乱の責任を理由に天草四万石を収公された。 広正−広高−堅高 |
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富田氏 【丸に違い鷹の羽】 富田氏は宇多源氏佐々木氏庶流といわれている。戦国期の当主知信は一白の名で知られ、秀吉の使者として大名の間を往復して活躍している。文禄四年には伊勢安濃津城主となり、五万石を与えられた。子信高も秀吉に仕えた。関ヶ原のときは東軍に属したが、西軍の攻撃をうけて支えきれず、ついに開城。剃髪して高野山に入った。のち家康に召し出されて加増されている。 佐々木秀義−隠岐守義清−泰清−富田四郎左衛門義泰−┐ ┌−−−−−−−−−┘ └---助知−知信−信高 |
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藤堂氏 【蔦】 藤堂氏は近江国犬上郡藤堂村を発祥とする。その出自については諸説があり、(1)中原姓とするもの(2)宇多源氏佐々木氏族とする説(3)平姓とする説(4)藤原姓とする説などがある。一般には藤原姓説がとりあげられている。高虎は、はじめ父と同じく浅井氏に仕え、その滅亡後織田信澄、羽柴秀長、さらに秀吉に仕え、伊予板島城主八万余石となる。関ヶ原後は伊予今治二十万石に加増。のちに伊勢国津に転封となち幕末に至っている。 虎高−高虎−高次 |
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中村氏 【立ち沢瀉/星梅鉢】 中村氏は甲賀群発祥の豪族で橘姓とされている。孫平次一政の子一氏が秀吉に仕えて頭角をあらわす。すなわち秀吉が近江長浜城主ののころに二百石を与えられたのを皮切りに、次第に取り立てられついには和泉岸和田城主となっている。譜代の家臣がいない秀吉にとって直参衆であったといえよう。関ヶ原の合戦には東軍に属し、戦後伯耆米子城主となった。しかし、その後内政が乱れ、また一忠に子がなく断絶してしまった。 一政┬一氏−一忠 └一栄 |
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西尾氏 【櫛 松】 西尾氏は三河国西尾が発祥地とあるだけで、古いことについては明かではない。信光の子光教が秀吉に属し、美濃国野口村の所領を安堵されたというのが明かにされている。西尾氏ははじめ美濃斎藤氏の重臣氏家卜全の被官であったがやがて自立し、秀吉に仕えたものだろう。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後加増を受け三万石の大名となった。 光秀=信光┬光教=嘉教 └氏教 |