丹波国守護職にも任じられた足利一族仁木氏の居城跡で、主郭のあった山上は仁木氏の城があったことから仁入道山と呼ばれ
ている。仁木城は京都側より多紀郡の入る天引峠を越えてくる旧山陰道、摂津池田から丹波綾部に通じる旧街道の
交差する福住を押える要衝の地にある。仁木氏は早い段階で丹波守護職を解任されたが、
その後も室町幕臣として「永享以来御番帳」に名前があらわれる。そして、「応仁武鑑」に「仁木兵部太夫成長、
丹波福住一万五百石」と書かれているように、同じく幕臣であった淀山城の波々伯部氏や大山城の中沢氏らとともに
多紀郡に一勢力を保っていたようだ。
やがて乱世になると、籾井氏が福住北方の白尾山に城を築いて勢力を拡大するようになると、
仁木氏と籾井氏とは拮抗するようになった。伝統武家勢力である仁木氏は新興の籾井氏に対し頽勢となったようで、
いつのころか仁木氏は四国の縁故を頼って福住から退去していった。まことにはかない話だが、仁木城は
丹波と浅からぬ関わりを持った仁木氏の歴史を伝える数少ない場所のひとつである。
|