低山歩こう記-福住字枕木桂山


仁入道山に登る

・2009年12月15・17日


川原住吉神社の方より仁入道山を遠望(20090725)

仁入道山は仁入道ケ嶽とも称され、篠山市の東方、京から天引峠を越え篠山から但馬に通じる旧山陰道と、 摂津方面から天王峠を越えて綾部に通じる旧街道が交差する福住の南西に聳える山である。 篠山盆地の東南を画する弥十郎ヶ嶽から東北方に伸びた尾根に位置し、中世、丹波守護職にも任じられた仁木氏が 山上に築いた城址があることから仁入道山と呼ばれるようになったのだという。
登山コースとしては、西方の小野奥谷から登るもの、東方山麓にある如来寺後方より登るもの、 さらには弥十郎ヶ嶽から伸びる尾根をたどるコースなどがある。ポピュラーなものは、小野奥谷にある中世の 宝筐印塔より取り付き、桂山の三等三角点を経て北方尾根をたどって山上を目指すコースだろう。とはいえ、 戦国ファンには仁木城の跡をたどりながら山上をめざす如来寺からのコースがお奨めだ。


如来寺 ・急坂を登る ・尾根道が続く ・曲輪のような小ピーク(右端)

如来寺後方の谷に分け入ると、砂防堰堤の右手山腹に山道が見える。その急坂を上りきると城址の出曲輪を思わせる 削平地(小丘状)で、そこから仁入道山まで尾根をまくように山道が続いている。途中450メートルのピークが 桂山との分岐で、ピークを下ると岩場が広がり谷を隔てた前方に飛曽山が聳え立つ。
飛曽山を横目に尾根をたどると、土橋(馬の背)上の道が続き、やがて山上城址群最北端の片堀切があらわれる。 そこから、山上の主曲輪群までは長い登り道となり、堀切・土橋・虎口・空堀道、そして曲輪・土塁など 城址遺構群が山上まで連なっている。
桂山への尾根 ・桂山の三角点 ・仁入道山山上へ ・岩場より飛曽山を見る ・土橋状の道

・歩こう - 参考マップ



片堀切 ・長い土橋 ・虎口 ・空堀道を登る ・土橋と大堀切

二番目の虎口 ・石垣址か? ・空堀道が続く ・尾根の曲輪 ・山上の城址へ



仁入道山-山頂 ・東北尾根を下る ・城址址を思わせる大岩 ・山麓の石垣址 ・如来寺越しに籾井城址を見る


堀切と長い土橋、空堀道は見応えのあるもので、虎口や空堀道の要所に 石積みの址が確認できる。山上の主曲輪群につづく尾根には土塁を伴った曲輪であろう削平地が続き、 やがて前面にあらわれる急斜面を登れば山頂へといたる。
山頂一帯は雑木に覆われ、往時、福住から天引方面、多紀連山、遠く篠山盆地まで望めたであろう 眺望はまったくない。また、城址といいながらほとんど自然地形の状態で、風化もあるだろうが曲輪址も判然とせず、 土塁や竪堀といった防御施設もない。ここに城址があったという情報を持っていなければ、 まったく見過ごしてしまうところである。せめて、展望を確保できる範囲での山上の雑木の伐採、 あるいは城祉の案内板の設置などが行われればと思うのだが、第三者が無責任に言うような簡単なものではないのだろう。
城址から山麓の如来寺まで伸びる東北尾根の急斜面にも曲輪址が点在、また、 南に続く尾根をたどれば弥十郎ヶ嶽から摂津方面へ、飛曽山を経て篠山方面へも通じている。 仁入道山は如来寺後方の谷筋を取り囲む一大城砦群であり、多紀郡東方を固める一大要地であったことが知られる。 戦国時代、福住一帯は仁入道山の北方白尾山に拠った籾井氏が支配するところとなり、仁木城主の仁木氏は 福住から退去していったという。ありふれた何気ない山だが、歴史の栄枯盛衰を感じさせる山である。

【登山メモ】 15日/ 如来寺スタート:1300 →(堰堤から尾根に登る)→ P450:1350 → 桂山:1400(雨で下山)
17日/ 如来寺スタート:1220 →(堰堤からP430へ斜面を直登)→ P450:1250 → 飛曽山遠望:1255 →
      二番目の堀切:1306 → 山上の城址:1318-1400 → 山麓の石垣:1425 → 如来寺:1435

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仁木城址