篠山の山城を探索する-辻字淀山


淀山城址



東方山麓の溜池越しに城址を見る


京から亀岡を抜けて篠山に通じるデカンショ街道(国道372号線・旧山陰道)、安田交差点を経て小野新の交差点を左折し、さらに篠山方面に進んでいくと小さな峠を越した右手に小山が見えてくる。その小山が淀山城址で、城址の西方には八上城址のある高城山が横たわっている。淀山城は祇園社領の波々伯部保に割拠した波々伯部氏の本城で、 南北朝時代、足利尊氏に属して功のあった波々伯部為光が築いたものと伝えられている。
波々伯部氏は久下・長澤・酒井氏らとともに丹波生え抜きの武士で、足利尊氏の旗揚げに駆けつけたことで名をあらわし淀山城を本拠として中世を生き抜いた。室町幕府に出仕して国人奉行を務めたものもいるが、細川氏の内衆波多野氏が八上に拠って勢力を拡大してくると、やがてその麾下に属するようになった。そして、波多野秀治が丹波の戦国大名になると、淀山城を主城に、 東山城、南山城などの支城群を築いて一族を配し、八上城の東口守備の任をになった。


新調された登城口の説明板 ・ 整備された登山道 ・ 竪堀と案内板 ・ 井戸曲輪 ・ 見事な堀切


淀山城の大手はデカンショ街道側の東南部にあったようだが、東方山麓の溜池から流れ出る用水路に遮られており、 溜池北側より分け入るのが現在の大手道である。この十二月(2009年)に、夏以来、実施されていた地元の方々に よる城址の整備作業が完了し、登り口には淀山城址の案内板が立てられ、登山道には標識が設営されるなど 城址一帯は見違える姿となった。


横堀 ・ 塹壕状の曲輪 ・ 竪堀 ・ 北の大堀切 ・ 曲輪北端の切岸と曲輪


二の曲輪北西下の土塁 ・ 土塁南の竪堀 ・ 主郭西直下の横堀 ・ 主郭南西直下の曲輪と堀切 ・ 主郭と南曲輪を西方から


城址に足を踏み込むと、以前に訪れたときは竹薮であった井戸曲輪が広々と生まれ変わり、そこから池に沿って 登り道を辿っていくと山腹より落ちる竪堀、井戸址の残る曲輪が現れる。そこから山上の主郭へは、山腹に 築かれた帯曲輪群をたどりながらのツヅラ折れの登り道となる。最高所の主郭は木々も伐採され、眼下にデカンショ 街道(旧山陰道)を見下ろし、西方には八上城址、南方には東山城・南山城などの支城群が一望である。


主郭切岸と神社址の礎石 ・ 主郭土塁と南曲輪 ・ 主郭から八上城址を遠望 ・ 主郭東直下の帯曲輪 ・ 二の曲輪から横堀越しに主郭を見上げる


淀山城址を特長づけるのは、帯曲輪と竪堀・横堀、そして堀切群が混在した縄張である。帯曲輪と竪堀・横堀は 東斜面の山腹全体に設けられ、主郭と二の曲輪との間、二の曲輪と北尾根曲輪との間に堀切が切られている。 北側の堀切は見事なもので、二の曲輪との高低差は十メートルはあろうかと思われる。帯曲輪は土塁で囲まれた 塹壕状のものもあり、それぞれの削平は十分で、竪堀・横堀との防御関係もよく練られているように見える。 城の構えは東方の天引峠を越え、福住方面から侵攻してくるであろう敵を想定した縄張となっている。 篠山側の西方部にも帯曲輪が設けられ、堀切道にも見える土塁を伴った塹壕状の横堀、 土塁と横堀と竪堀が一体となった遺構、南西尾根先を穿つ堀切など、細かく工夫された防御施設が確認できる。 また、城址の北西部より西方に伸びる尾根は自然地形ながら、曲輪として利用されていたものと思われる。 淀山城は小山にあることから小さな城にみえるが、山全体を城砦化したなかなかどうして堅固なつくりのものである。
今回で三度目の登城となるが、かつて倒木に埋もれていた主郭は顕彰碑の周りもきれいになり、波々伯部氏の 歴史を簡潔に紹介した説明板も立てられている。主郭南直下の神社のあった曲輪、その先の帯曲輪群もきれいに 伐採され、木や竹でこしらえられた休憩施設も設置されている。主郭の東方直下の帯曲輪から北方の二の曲輪、 さらに主郭北西直下の帯曲輪もきれいに整備され、以前は難儀した城址遺構群の縄張も手にとるように分かり やすくなった。数ある篠山市内の戦国山城群のなかでも、とくに保存状態の良かった城だけに、 さらに登りやすくなったことは山城ファンとしてまことに嬉しい限りだ。
・登城:2009年12月07日
・写真はGoogleの航空写真をベースに、『戦国・織豊期城郭論―丹波国八上城遺跡群に関する総合研究』 掲載図を組み合わせて作成したものです。

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整備前の淀山城址 / 武家家伝・波々伯部氏