戦国山城を歩く

・2006年08月16日→2007年01月06日


安口方面から城址を遠望

籾井城跡を訪ねる

福住の地は亀岡から天引峠を越えてすぐのところに位置し、古くは山陰道、江戸期は京街道と呼ばれた京から山陰に通じる交通の要所であった。その福住の町を見下ろす白尾山に城を築き拠点としたのが籾井氏で、白尾山に築かれた城は籾井城と呼ばれた。波多野氏に属した籾井氏は明智光秀の丹波侵攻に抵抗、敗れて籾井城は落城、籾井氏は福住の地を去った。



籾井城の周辺を歩くと、細川氏との縁りを伝える禅昌寺・籾井氏の菩提寺という本休禅寺などが散在している。右端は安口(はだかす)城址。

2007年正月六日、籾井城址に登る。本丸を中心として土塁・堀切などが散在、城址からは亀岡方面が望め、要衝の地であることが実感できた。翌日、丹波は雪模様となり、籾井城址もうっすら雪化粧となった。


籾井城再攻略
2009年02月07日

はじめて登ってから二年、その間、見落とした遺構が多かったことに気付かされていた。今回も南尾根からのぼり、主郭に続く曲輪群に取り付いた。主郭部と西尾根に続く曲輪を穿つ大堀切、主郭の北の曲輪から北西曲輪を結ぶ土橋、竪堀、北西曲輪の虎口と横矢掛けなど見応え十分だ。一方、東尾根に連なる曲輪群とは土橋で結ばれ、最東端の曲輪は二重土橋をもった堀切が穿たれ、その先に続く尾根との間を断ち切っている。なかなかの規模と戦闘力を有した戦国山城であることが改めて実感できた。また、登山道の整備、曲輪に繁る木々の伐採など、遺構を壊すことなくほどよい手入れがなされているのも気持よかった。


以前にはなかった標識・大堀切もキレイに伐採されている・栃梨城方面を見る・北曲輪から見た主郭の切岸・さらに北曲輪への土橋


竪堀を見上げる・最西端の虎口・東曲輪を結ぶ土橋と片竪堀・最東端の堀切・東曲輪から木々越しに主郭を見る

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53次・籾井城跡 / 武家家伝・籾井氏