篠山から亀岡に抜ける「デカンショ街道」国道372号線と、摂津池田から丹波綾部に通じる国道173号線が交差する福住の小野新交差点、その東方にある白尾山上に籾井城址がある。籾井城は安田城・福住城とも呼ばれ、戦国時代に福住一帯を領した籾井氏の居城址で、永正ごろ(1504〜21)、籾井河内守照綱によって築かれたという。照綱の事績は詳らかではないが、新興の波多野氏に属して多紀郡東方の守りに任じ、三好氏の侵攻などには波多野方として行動したものと思われる。照綱のあとを継いだ綱重は波多野秀治の妹を娶って多紀郡に重きをなし、元亀年間(1558〜73)、さらに京都寄りの地安口(はだかす)に支城を築いた。そして、籾井城を嫡男の綱利に継がせると、次男の綱正をともなって安口城に住した。綱利は波多野秀治に属し、氷上黒井城主の赤井直正と並ぶ勇将で、赤井直正が「丹波の赤鬼」と呼ばれたのに対して、「丹波の青鬼」と恐れられた。
戦国時代末期の天正三年(1575)、織田信長は部将の明智光秀に命じて丹波経略を開始した。籾井城・安口城は京都から篠山への入り口に当たるところで、天正四年十一月、明智軍との間で激戦が行われた。丹波国衆の抵抗は強烈で、明智光秀は攻めあぐねたが、翌五年十月綱重・綱正父子が守る安口城は明智軍の攻撃を受けて落城、綱重は城から逃れ去った。安口城を落とした明智軍は籾井城の攻略に取りかかった。城を守る綱利はこのとき二十五歳、綱利は非戦闘員や傷病兵を城から落としたあと明智軍を迎かえ撃ち、本明谷川に討って出て敗れ切腹した。
いま、籾井城址に登ると、頂上の本丸跡には籾城公園の碑が建ち、二の丸、三の丸や堀切などがよく残っている。本丸から東方を望むと、天引峠から篠山に通じる街道が眼下に見下ろせ、多紀郡東方を守る要の城であったことがよく理解できる。勇将籾井綱利と一族に対して、明智方から調略の手も伸びたことであろう。しかし、波多野氏に殉じた籾井一族の節義は、もっと顕彰されてもいいのではないだろうか。
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