戦国山城を歩く

・2007年1月21日


細工所交差点から城址を見る

細工所城跡に登る

細工所城は荒木城・井串城とも呼ばれ、天文年間末(1550年ごろ)に荒木城守氏香(氏綱ともいう)が築いた山城と伝えられている。 山城守氏香は、波多野秀治に属し「丹波鬼」と恐れられた勇将であったが、天正5年(1577)、明智勢の猛攻をうけ落城し 降伏したと伝えられている。山上にある城跡への道は雑木林に覆われ、主郭手前の急坂には登山用のロープがあるなど、 楽々とは登らせてもらえない。主郭は意外な広さで、四方の尾根に曲輪が連なっている縄張りは、なかなかの要害であったことが 実感できる。城址山麓にある民家の傍らの薮の中には、荒木一族のものと伝えられる古い五輪塔が祀られている。また、 氏香が再建したという霊輝山瑞祥寺には、那須与一大権現が祀られ、武運長久、諸願成就などとともに中風封じに霊験があるとされている。 瑞祥寺の境内の墓地を歩くと、荒木家の墓があり「葉牡丹」の紋が刻まれていた。ひょっとして、城主であった荒木氏につながる荒木家のものであろうか?



細工所交差点を右折して左手の山を見れば、そこが細工所城跡の山である。落ち葉に埋もれた山道を、喘ぎながらひたすら登ると細工所城址へ。



本丸跡は思いのほか広く、曲輪や土塁、堀切が散在している。本丸跡からは遠くに波多野氏の居城八上城址が望め、細工所城が波多野氏の前衛の任を担っていたことが実感できる。



山麓には荒木一族の古い五輪塔の残片があり、いまも子孫の方が参られるという。城跡から少し歩くと瑞祥寺へ、 無住というがきれいに片付けられた境内の一角に那須与一大権現が祀られている。裏山の墓地には荒木家・澤家などの墓石が佇んでいる。 【右端:縄張り図】

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荒木城址に再登山 / 53次・細工所城跡 / 武家家伝・荒木氏