篠山には名所・旧跡も数々ありますが、街角にも楽しいところが発見できます。意外な見処、食べ処などなど、篠山ならではのスポットを探索していきます。 |
篠山市内には丹波の戦国大名として知られる波多野氏が本城とした八上城址をはじめとして、有名、無名の戦国山城が 100城近く存在している。比較的知られる山城としては荒木氏の拠った細工所城址、長沢氏の拠った大山城址、そして、 波々伯部氏の拠った淀山城址などが挙げられる。丹波の戦国領主たちは明智光秀の丹波攻めに抵抗して敗北、 かれらが拠った山城群は荒れるにまかされ、城址へ行くにも道なき道を登らなければならないところが多い。 そのようななかで、淀山城址は遺構の保存状態もよく、小山にあることから登りやすい城址の一つであった。 その淀山城址が篠山城築城400年祭の一環として、地元の方々によって竹薮の伐採、廃棄物の撤去、登山道・標識の 設営などの整備作業が行われさらに登りやすい城址となった。かつて見晴らしの悪かった山上の主郭(本丸)からは、 眼下にデカンショ街道(旧山陰道)を見下ろし、八上城址をはじめ波々伯部氏一族の支城群が一望できる。主郭に立って 四方を睥睨すれば、文字通り、戦国武将の気分が味わえること請け合いのところである。 〔取材:2009-12/07〕
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不来坂は「コズサカ」と読みそうだが、「コノサカ」が正しい。デカンショ街道を今田方面に走り、 古市の踏み切りを越えてすぐの峠が不来坂である。源平時代、亀岡の老の坂を越え篠山を経て一の谷に向かった 源義経は、その途中にある古市の峠に平家が待ち伏せしているだろうと予測していた。ところが、 平家の兵はみえず「平家来ぬ坂」と言ったことから名づいたものという。不来坂を越えた義経軍は播磨国三草山で平家軍を破り、一の谷へと駒を進めていったのである。 篠山界隈には、真南条の鞍懸山、小枕の馬口池、大熊の笛の薬師などなど、源義経に関わる伝説が多い。さらに、源頼朝と対立して追われる身となった義経を最初に庇護したのは、多紀連山を修行の場とする御嶽の修験者たちであったともいわれる。意気揚々と平家打倒の軍勢を率いた義経、大功を挙げながら失意の境涯に落ちた義経、 篠山は明と暗の義経伝説が語り継がれているところだ。 〔取材:2009-10/12〕
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篠山市のシンボルでもある篠山城は、慶長十四年(1609)、徳川家康が豊臣恩顧の大名を動員して築いたものだ。いわゆる天下普請とよばれるもので、総奉行は池田輝政、縄張りは築城の名手藤堂高虎が担った。十五ヶ国、二十の大名の夫役、総勢八万人の労力による大突貫工事で、わずか六ヶ月で完成した。篠山城の中心となる大書院は、いま封切られている映画「火天の城」のロケ地になった。 篠山城の最大の見所は石垣の素晴らしさだ。そして、石垣の石には○・□・△・●・卍などの刻印や墨書などの符号が記され、現在、見つかっただけで約二百五十種、二千個以上を数えている。その種類の多さは、大坂城につぐものであろうといわれるが、城の規模からいえば日本一といって差し支えないだろう。石に刻まれた符号を見ていると、怒号や掛け声が飛び交う築城当時の情景が目に浮かんでくるようだ。 あなたも、符号の数々から城造りの熱気を感じてみてはいかがだろうか。 〔取材:2009-08/16〕
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篠山市の西方、丹波国と播磨国を扼する西光寺山がある。いま、 西光寺山の丹波側今田の湿地に鷺草(サギソウ)が可憐な花を咲かせている。 鷺草は、ラン科ミズトンボ属、あるいはミズトンボ属を細分化したサギソウ属に分類される 日当たりのよい湿地に育つ多年生の草花。八月中旬から九月初旬に咲く白い花が、 白鷺が羽を広げたように見えることから鷺草と呼ばれるようになった。 愛らしい草花だが、地下茎に捕虫嚢網があり泥の中の微小生物を捕らえる食虫植物でもある。 現在、乱開発や盗掘の影響もあって鷺草は減る一方で、自然の中ではなかなかな見られなくなった。 今田は数少ない鷺草の自生地で、かつてはどこにでも見られる花だったというが、 西光寺山山麓の乱開発、不心得者の盗掘などで鷺草の数は激減している。 現在、鷺草の自生群落の保護と保全に力が尽くされ、次第に個体数も復元されてきつつあるそうだ。 可憐な花だけに持ち帰って育てたくなる気持も分からなくはないが、野の花は自然にあってこそ 美しさが際立つもの、鷺草が西光寺山の麓で安住できるように見守ってほしい。 〔取材:2009-08/19〕
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川代渓谷は篠山市内を貫流する篠山川に沿った約4kmの渓谷で、大昔、篠山盆地が湖だったころ、 流れ出る湖水が谷を削ってできたものといわれている。JR福知山線の丹波大山駅から下滝駅までの区間にあり、 渓谷に沿って走る電車から四季折々の景色が楽しめる。渓谷の両側には山々が迫り、 太古より岩に砕ける急流が様々な奇岩・奇勝を作り出している。なかでも面白いのが川岸の岩に穿たれた 「ポットホール」と呼ばれる大小さまざまな穴だ。これは、岩のくぼみに落ちた石が、水の流れによって回転、 長い年月の間に岩を削り取った侵食作用でできたものである。見ると、 まるで岩が「あくび」をしているように見えるものもあり、眺めていて飽きがこない。 川代渓谷は篠山群層という約1億年以上前の地層で、先年、その地層の中から恐竜の化石が発見された。 発見場所は丹波市側にある上久下発電所跡下の河原で、いま「丹波竜」と称されて町おこしに一役かっている。 また、一帯は川代公園として整備され、春には桜の名所として賑わう。上流にある川代ダムのせいか、 素晴らしい清流と言い切れないのが残念だが、春の花見に渓谷美、恐竜との出会いなど、 あれこれ楽しめるところである。 〔取材:2009-05/30〕
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篠山城の外堀をなすかのように流れる篠山川、篠山川には東より弁天橋、京口橋、監物橋、そして渡瀬橋 などの橋が架かっている。弁天橋は河原に祀られた厳島神社に、京口橋は城下の東端京口にあたるところから、 監物橋は戦国時代に波多野氏の重臣であった渋谷監物の居館があったことに、それぞれちなんで 名づけられたものである。渡瀬橋は単純に「瀬を渡る」がそのまま橋の名称になったものであろうが、 面白いのは四隅の欄干に猪の彫像が飾られていることだ。 「猪」といえば篠山の定番だが、あまりにも直裁的で有無をいわさず「篠山に居る!」ことを実感させられる。 ユーモラスな猪像は一度見ると忘れられないものだが、城下側の堤防下に一揆で処刑された領民の供養塚が 祀られていることを知る人は少ないようだ。 篠山藩の年貢は多いところでは「七割!」という重いもので、江戸時代を通じて一揆が頻発した。 猪の像たちは、かつて河原で処刑された領民の供養塚を護っているようにもみえる。改めて猪像を見直すと、その目が 哀しそうなのは気のせいだけではないようだ。 〔取材:2009-05/28〕
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