篠山の歴史・見処を訪ねる-34


大タワと多紀連山





新緑の大タワ ・ 紅葉の三岳北方の山々 ・ 霧に浮かぶ三岳(盃ヶ岳より)


肩を怒らしたような小金ヶ嶽 ・ 穏やかな三岳

多紀連山は多紀アルプスとも呼ばれ、京都府から篠山市、さらに丹波市まで、500から700メートル級の山々が連なっている。その地形は北方に急峻、南方に緩やかとなっている。そして、は日本海へ注ぐ由良川水系と瀬戸内海に注ぐ加古川水系とに分かれる中央分水嶺であり、北方山麓の鼓峠は峠の田圃が分水嶺という珍しいものである。
主峰は御嶽(三嶽・三岳)で793m、古くは藍波ヶ峰(らんばがみね)と呼ばれた。頂上は東西二つの峰に分かれ、西側が最高峰で三角点、東側には石室があり、南側直下には修験道場の本山新金峰寺大伽藍大岳寺跡がある。一方、725mの小金ヶ嶽は蔵王堂があったことから蔵王ヶ岳とも呼ばれる。多紀連山は平安時代末期から中世にかけて三岳連山修験道の行場として栄え、大岳寺・福泉寺などが山中に甍を競っていた。いまも、山中には三岳連山修験道の中心であった大岳寺(みたけじ)跡、福泉寺跡、水飲場などが残り、また「東の覗き」「不動岩」「西の覗き」「愛染窟」など、盛時の行場らしい地名が残っている。ちなみに三岳連山修験道の行は表と裏の二道に分かれていた。表は「金剛界廻り」といって、まず筱見四十八滝から峰々を経て御嶽頂上の行者堂へ。裏は「胎蔵界廻り」といって、御嶽頂上から西に向かい、西ヶ嶽を通って里の養福寺に入って滝の宮で水行をして終わる、というものであった。
修験道の開祖は、神変大菩薩と尊称される役行者(役小角)である。修験道の本尊は、不動明王でもなく、蔵王権現でもなく、実は大日如来といわれる。大峯修験の本山は役小角が吉野の金峰山に創建した天台宗金峯山寺で、新金峯山大岳寺は役小角が全国をめぐったとき、三岳に建立したと伝えられ、三岳連山を行場とする修験道場の中心となった。もっとも、三岳連山修験のはじまりは、鳥羽帝(1107〜1156)のころと推定され、三岳連山修験が栄えるにつれ、福泉寺・楞厳寺・清龍寺・豊琳寺・東明寺・満楽寺・金輪寺・西光寺・高安寺・興聖寺・佛性寺などの寺が建立された。なかでも、大岳寺に少し遅れて小金ケ岳に建てられた福泉寺は、大和の大峯山竜泉寺に対向して福泉寺と名づけられたもので、盛時は観音堂・僧坊などがつらなり奥の院には大日如来が祭られていた。建武新政崩壊後、後醍醐天皇が吉野に拠られたことから吉野地方は戦乱の地となり、大峯修験は衰退の色を見せた。一方、三岳修験は活況を呈して、僧兵を養うなど、おおいに栄えた。大岳寺の隆盛を危惧した本山の大峯側は、三岳側に登山の催促をしたが応じなかったため、文明十四年(1482)、吉野蔵王堂の坊頭主鬼が山伏三百人を率いて来襲してきた。三岳側の僧徒はこれを迎撃したが、敗れ、大岳寺をはじめ連山の寺々はことごとく焼亡してしまった。
現在、多紀連山は県立自然公園に指定され、イワカガミ・オサシダなどの高山植物・山野草・鳥獣も多く、登山道も整備されている。四季を通じて様々な表情を見せてくれる多紀連山は、修験道で栄えた厳しい歴史を秘めつつ様々な楽しさを与えてくれるところだ。とくに、秋のウルシ・ヌルデ・カエデ・ケヤキ・ナラの紅葉と晩秋の雲海は格別の美しさである。ちなみに「タワ」とは「山偏に定」と書き、撓むの当て字で山の稜線の凹んだところを言う。 (参考:みたけの里・歴史さんぽ)

・写真:安全を祈願して「山開き」の日に護摩を焚く修験者の方々

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小金ヶ嶽に登る/ 三岳に登る / 三岳寺址/ 福泉寺址

【関連リンク:多紀連山ガイドマップ