伊勢神宮には、律令施行の前後から神職の長として祭主と大神宮司とが置かれた。祭主には当初から中臣氏のものが似んぜられたが、大神宮司は必ずしも中臣氏とは限らず、大朽・村山・津島・摺宜・菅生などの諸氏が任ぜられた。
ところが藤原鎌足のいとこにあたる中臣国足の子・意美麻呂とその子清麻呂とが、祭主および神祇伯となり、政界でもその功績が大きかったので、神護景雲三年(769)、清麻呂の姓に大の字を加えられて、以後大中臣氏と称するようになった。それとともに、清麻呂の子孫が、神祇官の要職と、神宮祭主および大神宮司の職とを継承するようになった。
元慶五年(881)に大神宮司職が大宮司と少宮司とに分けられてからもこのことは変わらず、一族が大いに栄えた。分かれて春日神主・気比宮司・香取宮司・鹿島宮司などになったものもある。また、神宮周辺の居館の地名によって、岩出・小俣・佐奈・野依・岩田・若菜・長杜・殿村・小泉などの諸氏を分出した。
のちに固定した家筋のものが、おもだった職を継ぐようになり、南北朝期以降、大宮司家は河辺家が、戦国時代以降、祭主は藤波家(もと岩出)が世襲するところとなった。
【十六菊/花菱紋】
●皇大神宮(内宮)
●豊受大神宮(外宮)
■大中臣氏参考系図
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