武士と地名と名字
家名を表わす名字は、日本の歴史においていかにして発生し、変遷していったのか。

[INDEX] 名字の発生初期の武士団と名字武士の移住と名字名字の固定と混乱


武士の移住と名字

 名字の分布を調べる際に、一番目につくのは、鎌倉武士の移住と名字の関係である。鎌倉武士の中でも北関東の小山等の豪族は、白河関を越えて陸奥の地方に移住発展している。しかし南関東の武士が本領をはなれて遠隔地に移住したのは、やはり幕府の政治力であった。将軍の頼朝は、平氏を平らげて後、平氏一族とその武将の所領を没収し、部下の将士に賞として与えた。なかでも、西国に分布していた平家の没官領の多くを源氏の御家人に分与したため、その地方には意外に多く鎌倉武士の植民地ができた。豊後国の所領を大友氏等、安芸国の所領を小早川・熊谷・吉川・毛利等の諸氏、越後にあった平家関係の所領を三浦・毛利・大見等に与えたのは、そのあらわれである。

■鎌倉武士の地方移住

 つぎに頼朝の奥州征伐にあたり、功労のあった諸将は、それぞれ所領を奥羽の地に与えられているが、なかでも多くの所領を海道ぞいにもらったのは千葉氏であった。千葉氏では、常胤の次男師常が相馬郡を本領として相馬氏を賞し、陸奥では行方郡内村々の地頭職を与えられたが、相馬の名字は移住後も使用し、移住の地をも相馬と呼ばせた。これは移住地が未開発の地方で相馬氏の権力が圧倒的であったためである。三男の胤盛は、千葉郡の武石郷を領し、文治五年宇多・伊具・亘理の三郡に所領を賜ったが、その曽孫に至って亘理氏を称した。四男の胤信は大須賀保を本拠とするが、岩城郡に移っても大須賀氏を称した。なお、葛西七郡と称される地域にも千葉頼胤を始祖とする千葉氏の一族が居住しているが、この頼胤は常胤の改名とする説と常胤の七男とする両説があって、明らかではない。いずれにしても、葛西氏の重臣として千葉の一族が繁延し、その名字もこの地方一帯にひろがっている。葛西氏は郷里の地名をそのままに発展したが、居住地の地名を変えることはなかった。
 梶原氏の場合では、気仙郡唐桑村石浜に梶原景時と景季を祭ったお堂がある。これは景時の兄がこの地方に下向したとき、居宅のそばにお堂を立てたのがはじめであろう。梶原の名字もこの地方に多い。  本吉地方には熊谷氏が勢力を伸ばしている。その史料は系図だけであるが、この地域一帯の豪族となっている。安芸に下った熊谷氏は三入薗の地頭として発展していったが、近江と陸奥の熊谷氏も今後の研究で明らかとなることだろう。
 なお、北関東の小野寺・阿曽沼・小山の諸氏もそれぞれ所領を与えられ、一族が移住している。  関東武士団の地方移住として、つぎに大きな契機となったのは三浦氏の宝治合戦であろう。三浦氏は北条氏に対立する最大の武将であっただけに、その与党の没収せられた所領は大きく、北条氏に近い南関東の武士がその所領を与えられて、それぞれに移住した。三浦氏のなかで北条氏に近かった葦名氏が会津荘の地頭代、渋谷氏が薩摩の入来院の地頭に任命されるなど、地方でも北条氏、とくに得宗家の勢力がいよいよ増していった。この中でも注目されるのは、北条氏の御内人と称される伊豆の武士たちである。工藤・南条・曽我・狩野の諸氏がそれであり、ことに工藤氏は、北条氏の得宗領のあるところに必ずといっていいほど、代官として派遣されている。津軽・南部・寒河江・若狭等々、工藤の名字のあるところは、北条氏の勢力圏であったところということができるようだ。

●諏訪氏の場合

 信濃の諏訪氏も北条氏の発展にともなって、各地に活躍した。諏訪の上社の祭神建御名方の子孫は後世神家とも、諏訪氏ともいうが、本来は三輪氏であろうか。上社の社家には、神・小出・矢島・伊藤・長坂・花岡などがあるが『太平記』には神家の一党三十三家が挙げられている。下社の社家のは国造家の流れを汲む大祝金刺氏があり、このほか今井・志津野があり、さらに源氏の流れを汲むという滋野氏もいつのころからか諏訪の一族とまじわって行った。こうして諏訪氏の一族は約百四十氏ともいわれるが、諏訪とか神とか本来の姓よりも他姓を名乗るものが多い。北条氏は信濃に多くの得宗領をもち、諏訪の大祝を有力な味方にしていたから、東国各地の得宗領にも諏訪の一党が代官として派遣された。津軽に神の名字が多くあるのは、このためである。
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諏訪氏の代表紋/梶の葉

●鈴木氏の場合

 熊野の鈴木氏は、熊野信仰の発展とともに各地に発展し、全国一位を占めるほどになった。もと穂積氏といい、紀州新宮を本拠とし、榎本・宇井と三家をなした。もち名草郡藤白湊を中心として発展、同地に王子社があり、水運の要地であった関係から、熊野湛増の「頼切りたる侍」として、熊野水軍の重要な要素をなした。
 源平争乱のときには、摂津の渡辺党とともに、源氏の水軍として活躍し、義経の都落ちにも従った。四国・九州にも熊野信仰を伝えているが、やはり東海から関東にかけての活躍が著しい。三河では、幕府の御家人として江戸に移ったものが三十数家というから、如何に鈴木党が三河に栄えたがわかる。下総の香取郡・匝瑳郡にも多いが、江戸の発展が何より鈴木姓の増加をもたらしたものと思われる。
 伊豆の西海岸江梨にも、鎌倉幕府の水軍として重きをなした鈴木の一族があった。室町以降、鈴木党は水軍の将として各地に迎えられたようであるが、その一方、熊野のすぐれた漁業技術と、熊野の信仰を背景として、鎌倉中期には、三陸の海岸にまで進出した。北上・鳴瀬などの大河川の流域にも熊野神社が建てられ、上流の宮崎には大崎氏によって大崎五郡の総鎮守である熊野神社が勧請され、その神輿は祭のときはるばる桃生郡にまで巡行したという。陸前唐桑の網主鈴木家も熊野系図に記しているが、その隣村に梶原堂のあるのは、鈴木と梶原が共に活動していたことを物語っている。また、熊野と鈴木氏の関係は北陸にも及んでいる。加賀山内の白川別宮ももとは熊野宮、城主の鈴木出羽守は藤白郷の出身という。
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鈴木氏の代表紋/稲

●佐藤氏の場合

 佐藤氏も鈴木氏についで天下の大姓であり、鈴木が関東にもっとも多かったのに対し、佐藤姓は東北のすべての県で一位を占めている。その理由の一つに、佐藤基治のとき、阿武隈の上流の肥沃な信達地方をおさえ、平泉藤原氏政権の有力な武将として、各地に一族を分封させ、相当な地盤を形成していったことがあげられる。第二に佐藤一族が頼朝に降伏したあと、各地に発展したのは、その実力を各地の有力者に認められたためであろう。
 降伏後の佐藤氏の発展については、以下のように考えられる。
 第一、その本拠地信夫郡の佐藤一族では、基治の子隆治・継信・忠信・重光などがあり、継信・忠信の兄弟は義経に従って活躍し、戦死した。文治五年基治は許されて信夫庄に帰ったが、伊勢佐藤氏の系図をみると、基治の子継信の子孫は摺上川上流飯坂を中心として、信夫庄北東部にひろがっている。南北朝の内乱期、一部は葛西氏に従い、本吉郡馬籠に移った。
 第二、信夫の佐藤氏が移住した馬籠と津谷の両村は、早く佐藤庄司の妻の湯沐の地といわれ、ここに佐藤氏の所領があったのであろう。佐藤一族は、この地方を中心として大いに発展した。
 第三、出羽最上郡豊田邑に移住した佐藤一族、さらに田川郡にものび、酒田を経て、新潟・秋田等にひろがった。また一部は同じ出羽の長井庄に移り、最後に伊達氏に従い、仙台伊達の主流をなした。
 第四、宮城郡西根にも、戦いを避けてこの地に土着した継信・忠信の兄七郎の系統が伊達氏の家臣に取り立てられている。なお佐藤は宮城地方の豪族留守氏の執事にもなっているから、馬籠の佐藤氏が葛西氏の重臣になったこととあわせて、佐藤一族の繁栄を考えるべきであろう。
 また、湯の庄司といわれた佐藤氏が青根や秋保温泉の草分けになっていることも面白い。さらに、相馬藩の侍の約二十%は、伊達氏に追われた佐藤氏の流れを汲むものといわれ、全国でも珍しいほど佐藤姓の集まるところとなっている。
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佐藤氏の代表紋/源氏車


名字の固定と混乱

 名字がさかんにつくられたのは、武士の移住と開墾の行われた鎌倉時代のことである。南北朝の内乱後は、相続制も庶子の分割相続から単独相続に変化し、集合家族から、家父長的な直系家族がかたまってくる。嫡子以外の庶子が土地をもらって分家を構える率は少なくなる。分家創設の際も、住地の如何に拘わらず、長く本家の名字を称するようになり、しぜん新しい名字の続出もなくなった。
 しかしその反面、庶民の成長にともなって、庶民にして名字を名乗るものも多く、有名な名字を詐称するものも現われた。ことに戦国末期以降、下克上によって一城の主となったものは、系図をつぎつぎに改編し、氏素性を尊貴名物とすることに苦慮した。一方、戦乱によって主家が没落すると、その一族は名字を変えて領内にひそみ、また多少これを改めて他家に仕官したりした。
 たとえば、肥後の菊池氏のように戦国の末、その一族のなかに酒田や秋田に亡命するものもあり、先に南北朝内乱期、病身のため家督を譲って東北の各地を流浪したという菊池武士の子孫とともに、東北の菊地姓姓のもとをなした。安房の里見の一族や家臣も盛岡付近に亡命している。名字の移動と混乱は、戦国末期にその頂点に達したといえよう。
 名字が混乱すればするだけ、一家を象徴する名字の価値が加わってくる。永亨以来、御番帳には土岐何々とか、佐々木何々とか、有名な氏の同苗にあたる者の名が記されているが、これはその苗字によって政治上儀式上ちがった待遇のあることを示すものである。熊野の御師は佐々木名字とか里見名字とかを全国一円に檀那の対象とし売買している。
 こうして名字は家格を示すものとなり、すべての名誉や財産の象徴として尊ばれ、名字をつぐことが家督相続の大事な要素となったのである。毛利元就は、三子をいましめた自筆の書状に「毛利と申名字之儀涯分末代までもすたり候わぬように御心づかい肝心までにて候」と記している。長宗我部元親がその百箇条で名字を改めるのを禁じているのも、家来をして家の観念を重んじさせるためにほかならない。有力な武将は、一家の権威を高めるため、同じ名字をもつ部下にはその改名を命じ、部下も主家に遠慮して自発的に改名した。常陸の江戸氏が徳川氏の江戸に遠慮して、水戸氏に改めたのがそれにあたる。
 一方、主家は恩賞として部下に苗字を新しく与えた。豊臣秀吉は有力大名に羽柴姓を与え、徳川家康は島津など二十九家に松平姓を与えた。形式的にその一族たる処遇を与えて、その心をつなごうとしたのである。
 このように社会の混乱期には、名字を固定化しようという動きと新しい名字を創造しようとする動きがあったが、結局、後者はそれほど多くはなく、鎌倉時代につくられた武士の名字が大半を占めて、明治に至ったのである。

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