拾い話
五大紋の話



 日本の数ある家紋のなかで、「桐・藤・木瓜・酢漿草・鷹の羽」の五つを「五大紋」と呼ぶ。 この五つの家紋は使用する家も図柄のバリエーションも多彩なことから、 そのように呼ばれるようになったものである。



・左から: 上り藤 /横木瓜 /酢漿草 /丸に違い鷹の羽 /五三の桐


 桐紋はもともと菊とともに皇室の紋章であった。それが功のあった臣下に賜与さえれるようになり、とくに将軍家に賜与された。その将軍家がさらに功のあった将士に再下賜したことで、世の中に広まった。菊紋は皇室を代表する紋として規制が厳しかったが、桐紋はそれほどでもなかったので、あこがれの紋として諸家が潜用したことで大いに広まったのである。
藤  藤紋は「藤」の字のつく名字の家で多く用いられている。それはひとつに藤原氏の藤にかけたもので、藤原氏の出自(正確ではないが)を紋で示したということである。たしかに藤原氏は天下の大族で、斎藤・伊藤・遠藤・工藤・藤井・藤本など「藤」の付く姓が生まれた。そして、それらの家々では藤紋を用いるケースが多い。とはいえ、紀伊の古族鈴木氏のように藤白に住んだことから、 藤紋を用いるようになった家も少なくない。
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・写真:和歌山県橋本市子安地蔵境内の藤

 「木瓜紋」は、瓜の切り口を文様化、あるいは鳥の巣を象ったものといわれる。古代豪族日下部氏の代表的な紋で、さらに紀姓・伴姓の諸氏が用いた。これらの諸氏は早くに野に下ったため中央ではあまり栄えなかったが、木瓜紋はおおいに広まった。木瓜紋はその均整のとれた図柄が大変よいこと、また祇園社の神紋であったことなどから、信仰と子孫繁栄とが結び付き、家のルーツにかかわらず爆発的な人気をよんで広まったのである。
 酢漿草は田んぼのあぜ道などに自生したありふれた植物だが、ハート形の葉が三つ寄り添ったまことに愛らしい草花である。酢漿草紋はその単純さとハートのかたちの美しさが人気をよび、冷泉・大炊御門などの公家をはじめ、武家、さらには大衆の間にまでおおいに広まった。武家では剣をつけたいかめしい「剣酢漿草紋」を用いる例が多い。
 「鷹の羽紋」は肥後の一宮である阿蘇神社の神紋で、神職はもとより氏子らが自家の紋として用いた。阿蘇神社は九州鎮撫の神であり、その武威の印が鷹の羽であった。そして、「鷹」は武人を表すシンボルとされ、鷹は「武」「猛」「高」などにも通じるとして、武家にきわめて人気があった。鷹の羽紋をはじめて用いたのは肥後の菊池氏といわれ、阿蘇神社の神託をえて用いるようなったという。江戸時代には忠臣蔵で知られる浅野氏をはじめ、多くの大名・旗本が使用した。
 このように、五大紋と呼ばれる家紋には世の中に広まるだけの理由があった。何よりも、洗練されて無駄のない図柄が 美しい。この「美しさ」という面も五大紋が広まる大きな要因であった。この五大紋に、「蔦・柏・茗荷・橘・沢瀉」を加えて十大家紋と呼ぶこともある。 こうしてみると、日本人はほんとうに自然、とくに草花の好きな民族であると感じずにはいられない。

・藤 紋の分布 ・木瓜紋の分布 ・酢漿草紋の分布 ・鷹の羽紋の分布 ・桐 紋の分布

・左から: 蔦 /柏 /茗荷 /橘 /沢瀉
[資料:別冊歴史読本33号]



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