日本史上、幾度かの動乱があった。武士が興った平安時代の中ごろ、 東国で平将門が起こした天慶の乱がは公家社会に衝撃を与えた。 以後、前九年・後三年の役、保元・平治の乱、源平合戦、南北朝の動乱、そして応仁の乱、戦乱のたびに時代は 大きく動いた。その間、武家政権が樹立され、公家に代わって武士が歴史を動かす存在となった。 戦いをこととする武士たちは一所懸命の土地を守るため、戦場を疾駆し、おのれの武功を積み重ねていった。 混沌とした戦場において武士たちの武功を示す印こそ旗印であり、家紋であった。
打ち続く戦乱は社会秩序を崩壊させ、下剋上の風潮を生み出し、実力のある者は伝統勢力を駆逐して 自らの旗を掲げて己の存在を誇示した。 新しい秩序の幕あけ、新しい権力のシンボルとして、注目を集めたのが武家の紋章であった。 下剋上の勝利者たちは、 自らを正当化するため、長い雌伏の末、隠れたる名門の末裔が躍り出たと思わせる系図を作為し、 それに相応しい紋章をもって家門を粉飾した。 かくして、明らかな偽作が、まことしやかに世間を横行し、紋章の数もにわかに激増した。
戦国時代を生きた武家の系図・紋章をながめると、かつて「風土記」で地名説話が物語られたように、 成り上がり者である新興武家団がみずからの紋章を武威的伝説をもって説明していることに気付かされる。 それは、時代の変革期における一つの傾向であり、その虚実を解明することは、いまとなっては容易なことではない。

●葵紋
本来は京都賀茂神社の神紋。『見聞諸家紋』では、丹波国船井郡の豪族西田氏が用いている。室町幕府八代将軍のころには、まだ徳川氏の家紋として表われていない。西田氏の場合は、古く丹波地方に賀茂信仰が萌していたことによるらしい。デザインはリアルな二葉立葵。三河地方の土豪松平、伊奈氏など周辺豪族をふくめて家紋の発達をみるのは、加茂郡そのものが奈良朝期すでに神戸があったからで、賀茂信仰が古くから盛んであったことによる。つまり、氏子豪族の表示。徳川家特有紋となるのは、慶長十六年以降のこと。
【三ッ葉葵】
●稲紋
『長倉追罰記』によると、熊野の神官鈴木氏が用いている。宇多源氏を称した亀井氏(津和野藩主家)は、紀州熊野の穂積氏の出自よいわれる。
【抱き稲】
●井筒/井桁紋
『文正記』には甲斐氏がみえ、『見聞諸家紋』では石井・長井氏がみえる。一般に広く知られているのは、遠江から出て彦根藩主となった井伊氏。いずれにしても井の字を、書き文字か図案化したもので、指示的性格をもつ。戦場で旗指物にした場合、一目瞭然で分かりやすかったのであろう。
【平井桁】
●馬紋
『見聞諸家紋』では、贄川氏や平野氏の「放れ馬」がみえる。平将門の後裔とする相馬氏は、下総の相馬から出て陸奥の相馬郡へ本拠を移し、馬の飼育放牧を司った。「繋ぎ馬」を家紋に用いている。
【繋ぎ馬】
●梅鉢紋
前田家一族の紋章として広く知られている。素型は六曜星紋から天神紋へ変わり、利家の晩年頃に軸付きの梅鉢紋が生まれている。三代利常に及んで、本・支を明らかにするため剣梅鉢、丁字梅鉢などと多様化した。大和の筒井氏も天神信仰により梅鉢紋を使用。
【梅鉢】



●『羽継原合戦記』を読む ●『見聞諸家紋』を読む



・別冊歴史読本-52号 故能坂利雄氏論文より引用

応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ