昔、こんな人が山崎にいたはりました。


山崎(yamasaki)は、山間の小さなまちです。戦国時代の後期、この地の領主が秀吉に滅 ぼされたり、江戸時代初期には藩主がめまぐるしく入れ替わったりして、残された記録が 少ないようですねん。そんな山崎にもさまざまに、活躍した人はいてはりました。

山崎 闇斎(1618-1682)
儒者。生まれは京都。南学派に属し、その流れはのちに崎門派とよばれた。
神道の垂加流神道の創始者でもある。曾祖父浄栄、祖父浄泉が山崎のひと。 闇斎自身、出身地をいうとき播磨山崎としたという。彼の教えをうけた 保科正之(会津藩主)も「山彦伝記」の中で闇斎のことを播州山崎の人と 書き残している。町内に闇斎神社が奉祀されている。
片岡 醇徳(?-1709)
通称米屋五郎太夫。町年寄役を勤めるかたわら学者でもあった。建武年間から 元禄に至るまでの、領主と治世の状況を記した「宍粟郡守令交代記」郡境、郷、 城から風俗、人物まで宍粟郡地誌の貴重な記録である「宍粟郡誌」の2冊の 著述を残している。現在、町内に醇徳の母の墓が残っている。
木村 公棟(?-1772)
但馬屋理平。町年寄役を勤める。歌人として、山崎八幡神社に50首詠の 和歌を奉納した。
四睡庵 素練(?-1801)
近世山崎俳壇の第一人者。青蓮寺の僧。句集に「俳諧三音鳥」、芭蕉の百回忌に 編集した「風月集」を著している。現在、町内段の観音堂に素練が建てた芭蕉の 木の下は汁もなますもさくらかな の句碑が残されている。
句碑には、 素練の句 月一つ松に残りて野分哉 も併せて刻まれている。

もっともっといてはんねやろけど、資料が少なくて。
今後も山崎に関わる人物を発掘していきます。 ご期待ください。また、こんな人もいてんでー! という声(資料・写真など)も、お待ちしています。
[参考資料/山崎町史]

[山崎] [龍野のひと]

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