篠山の山城を探索する-本郷ウエザコ


本郷草山城址



本郷春日神社方面より城址(左手の山上)を遠望 (20081019)


篠山市旧西紀町域の最北端に位置する本郷は、中世、草山荘があったところで、 戦国期には国人領主細見将監が勢力をふるった。
細見氏は紀貫之の子孫を称し、天田郡三和の細見谷から起こったと 伝えている。三和から草山、東方の鎌谷にかけては細見一族の城砦が 散在し、細見氏宗家が本拠としたのが多紀郡本郷であった。 城址遺構は細見氏の菩提寺松隣寺後方の山上にあり、『丹波志』には里の館が、 本郷集落の台地にあったと記されている。


急斜面を登る ・ 主郭西の堀切 ・ 主郭西端の土塁 ・ 北帯曲輪を見下ろす ・ 主郭切岸と南帯曲輪


虎口より主郭を見る ・ 虎口受け曲輪 ・ 主郭三角点より東曲輪を見る ・ 西尾根の自然地形の曲輪 ・ 北西ピークの岩場より本郷を眺望


城址は東西に長い山上の中央部を堀切で分断し、東側に主郭を中心として 帯曲輪をまき、東尾根に小曲輪を設けている。主郭の切岸は明確で、東方帯曲輪の中央に虎口が 設けられ、その外側に虎口受け曲輪が確認できる。また、 主郭の西端は浅い堀切、土塁が築かれ西側への備えを意識した構造となっている。 主郭一帯は雑木で覆われているが、往時は川坂、草山、桑原方面が 眺望できる格好の地であった。 一方、堀切を越えた西尾根部分は自然地形のままだが、 曲輪としても使用されたものとみられる。さらに、北西尾根先のピーク にある岩場は主郭の死角となる三岳方面が一望できる絶好の見張り台となっている。
本郷城の大手は虎口のある東尾根にあったようだが、現在は 一面の雑木林でその痕跡をたどることは難しい。 いまは松隣寺の境内墓地から谷筋に分け入り、急斜面を直登し 主郭部北西尾根に至るコースが分かりやすいようだ。 ただ、夏場の登城はダニ攻撃を覚悟する必要があることを付記しておきたい。


[  松隣寺  ]


山門と城址を見る(080607) ・ 参道を登る(100504) ・ 境内の石楠花(100504) ・ 山麓墓地一角の古い五輪塔(080607)


草山城はまことに小ぶりな城で、勇将細見将監が拠った城とは思えないものである。 実際、細見一族が拠った鎌谷城址の方が先進的な構造をしている。 草山を本拠とした細見将監は四方の山々を天然の要害とし、北方の要地に一族を配して備えを固めた。 そして、草山の一帯は里の館を主体に、草山城を陣城(詰め城)とする防御体制を築いたのであろう。
天正六年(1578)、黒井攻めに破れた明智光秀の軍勢を、細見将監は畑氏とともに 鼓峠で要撃、惜しくも光秀を討ちもらしたと伝えられている。その真偽 * はおくとして、 鼓峠越えの道は本郷を経て京方面へと通じており、一帯は細見氏が支配するところであった。 それだけに、将監にとって、いやその後の丹波勢にとって、大魚を逸したといわざるをえない 痛恨事であったろう。
ところで、将監が建立したという松隣寺は石楠花寺としても知られた、 シーズンともなると数多の石楠花の花が境内を彩る。また、本郷には 草山温泉があり、石楠花見物と温泉を楽しめるところでもある。加えて、本郷春日神社の秋祭りに 奉納される春日踊りは、県内では類例がない民俗芸能として市指定の無形民俗文化財で 一見の価値があるものだ。
・登城:2010年11月02日
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*『西紀町史」の記述に従ったが、明智光秀が波多野秀治の寝返りによって敗戦を被ったのは 天正四年の正月のことで、細見将監が鼓峠で光秀を要撃したとすれば天正四年のことになる。 さて、その真偽のほどは…?