南側より観音堂と城址(右の小山上)を遠望する
国道176号線を北上すると、西脇方面に通じる味間谷へ左折してしばらく走るとテクノワークの看板が現れる。
城址は看板後方に見える小山の上にあり、城主は安村丞太夫とも谷後和泉守ともいわれている。
『丹波志』には安村丞太夫が城主とあり、また、味間谷には味間伊豆守と安村丞太夫が勢力を持っていたともある。
いずれが城主であったのか、その詳細は分からないが、『波多野家文書』には永禄七年(1564)、
氷上郡を支配した赤井直正が味間伊豆守に宛てた味間中村分の領有を認める書状が残されている。
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テクノワーク側から堀切へ ・ 城址西端の曲輪へ ・ 帯曲輪と切岸
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主郭から東曲輪 ・ 東曲輪から主郭を見る ・ 階段状の曲輪 ・ 主郭切岸と帯曲輪
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西尾根を穿つ堀切 ・ 堀切からの道 ・ お堂に祀られる供養塔や古い宝函印塔
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城址の大手道は東山麓側だが、西方に切られた堀切からが登りやすい。城址南西にある観音堂(阿弥陀堂)には城主の
供養塔や古い宝函印塔が残り、赤い屋根は堀切への格好の目印となっている。
小さな城で縄張は主郭を中心として同心円状に二重の帯曲輪が取り巻き、全体的に東尾根先へと傾斜している。おそらく
東山麓に居館があり、その背後の山上に詰めの城として築かれたようだ。城址の北東には谷を隔てて西古佐(平井山)城址があり、
南側には味間南城址がある。三城は互いに連携しながら、
丹波から播磨に通じる味間谷を扼し、多紀郡西方の守りに任じていたのだろう。
・登城:2009年12月14日
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