矢代南の高仙寺から城址を遠望 (20091114)
城址は栗栖野集落の氏神大歳神社後方の山上にあり、中世、篠山市南西部に勢力を張った酒井党の一栗栖野酒井氏の居城であった。栗栖野酒井氏は矢代酒井氏の貞信の弟彦次郎信綱に始まるといい、
永禄のころの当主越中守頼重が栗栖野城を築いたと考えられている、
『丹波志』によれば、城址は南北に長く、主郭を中心に北に二の曲輪、三の曲輪を配し、主郭の西に二段の帯曲輪、二の曲輪の西にも帯曲輪が築かれている。西側は切り立った岩場、東側は急斜面、南尾根は土橋状の細尾根で天然の要害地となっている。城址は雑木に覆われているが、西方、北方への見晴らしがよく、三の曲輪の先の尾根に築かれた小曲輪からは松尾山上の高仙寺城をはじめ波賀野城・南矢代城・大沢城など酒井党の城砦群が一望できる。また、
二の曲輪には民話でも知られる「イボとり地蔵」さんが祀られている。
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登り口の大歳神社 ・ 岩の道を登る ・ 城址手前の曲輪へ ・ 北東尾根の堀切
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北腰曲輪と地蔵堂 ・ 腰曲輪から主郭へ ・ 矢代・波賀野方面を見下ろす ・ 西の腰曲輪
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主郭 ・ 主郭南端の土塁(尾根側より) ・ 腰曲輪を見下ろす ・ 北の曲輪より松尾山と高仙寺を遠望
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城址へは大歳神社より登り道があり、そのまま北の堀切に通じている。登り道の途中にも曲輪を思わせる地形があり、堀切の南下に大手門があったという。堀切を越えるとすぐ左手山上に三の曲輪がみえ、三の曲輪から南尾根に向かって二の曲輪、主郭と続き、それぞれ切岸で区画されている。主郭には山の所有者の方が立てられた山小屋があり、いささか違和感はあるが往時の建物の大きさが想定できるスケールともなっている。主郭の南端には低い土塁跡があり、その先の尾根に堀切が切られている。
そこから先の南尾根は馬の背状の岩場が凸凹状態で続き、守るに易い地形を呈している。
まことに小さな山城だが縄張からみる限り北方と西方の守備を意識したもので、西方の矢代酒井氏の城砦群と
連携して篠山盆地南西部草野方面からの敵勢侵攻に備えていたようだ。
越中守頼重には嫡男の筑後守信政と二男の中太夫依信があり、信政は酒井四家が氏寺高仙寺に十石宛て寄進したときの寄進状に署名をしている。明智光秀の丹波攻めが始まった天正三年(1575)、信政は病没したようで、嫡男信定を叔父依信が後見して城代に任じたという。その後、依信は八上城に籠城して病死し、信定は天正六年に城を退去し、村内に蟄居して帰農したという。城址北麓には信政が小庵として建立し、のちに栗栖野酒井氏の菩提寺となった若林寺がある。また、篠山城を築くとき栗栖野より多くの石材が切り出され、
使用されなかった残石が山麓に捨て置かれた状態で散在している。
・二の曲輪に祀られるているイボとり地蔵様
・登城:2009年11月23日
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