篠山の山城を探索する-曽地中字西山


曽地城址



八幡神社の鳥居越しに城址を遠望


城址は波多野氏が本城とした八上城址の東山麓にある野々垣集落を、西方に見下ろす標高385メートルの山上にある。『丹波志』には、「御所ヶ谷ノ東南古城アリ、明智高城ヲ攻メタル時二築クト云エドモ、内藤ガ旧跡アルヲ幸二拠ル二アラザルカ」とあり、 明智方の八上城に対する付城であったようだ。
曽地城の北側には堂山砦、篠山川を越えた北輪の剛山には井上城、東方の上宿には上宿城と明智方の付城群が並び立ち八上城を締め上げていた。そのなかで、曽地城は最前線に位置しており、主郭の西方正面には八上城が呼べば聞えるところに見えている。鉄砲山から放った鉄砲が八上城に被害を与えたとは思われないが、 常に臨戦態勢下にあったことを語るものといえよう。


獣除けの柵を越える ・ 竪堀状の道が続く ・ 北西尾根の曲輪虎口 ・ 横矢掛を思わせる曲輪


土橋と堀切 ・ 土橋状の道が続く ・ 主郭北西部に到着 ・ 主郭から八上城址を見る


主郭北西部の段構 ・ 主郭切岸と腰曲輪 ・ 段状の南西部腰曲輪 ・ 北東尾根の出曲輪


縄張は山上の主郭を中心に野々垣方面に伸びる北西尾根に、曲輪が点在している。尾根最先端部は鉄砲山といい、明智方が八上城に向けて鉄砲を放ったことから小字名として残ったという。山上の主郭は越し曲輪が取り巻き、北東の尾根先に出曲輪が設けられている。北西尾根の曲輪群は中腹の曲輪の東方に竪堀と土橋状の遺構が見られる以外は、 小さな曲輪ばかりである。
城址のある山と八上城のある高城山とは南方の尾根で繋がっていて、 主郭から南に伸びる細尾根には土橋を伴った堀切が切られている。さらにその先の尾根は馬の背とも形容される 土橋状の道が延び、八上城側に土塁をもった曲輪を思わせる地形が存在している。また、 堀切道を思わせるところもあり、八上城から伸びる尾根を遮断する意図をもつ遺構であったと思われる。

南尾根の土橋状の道(左)と土塁を伴った曲輪を思わせる地形 ・ 堀切道状の地形

天正三年(1575)以来つづけられた明智光秀の丹波攻略戦は、天正六年六月の波多野兄弟の降伏によって幕を閉じた。 曽地城は光秀の行った八上城包囲作戦におけるもっとも最終段階の城砦と思われ 、城址から八上城を眺めると波多野氏の断末魔の声が聞えるかのような気がしてくる。
・登城:2009年11月24日