篠山の山城を探索する-泉字剛山


井上城址



堂山砦から城址を遠望 (20090831)


城址は大芋方面より南流する篠山川が流れを西に変え、そこへ北流してきた曽地川が合流してT字形をなすところの北方に聳える剛山山上にある。剛山は姿のいい山で、 東方に鎮座する波々伯部神社方面から見ると、まるで富士山のような形をしている。
剛山は「こうやま」とよみ、その名の起こりは源義経に由来するという。元暦元年(1184)、丹波を通過した義経は 泉村の南賀寺に詣でた。その日は寺講の日であったため、義経一行は寺講のご馳走の接待を受けた。おおいに歓待された 義経が、「この東の山は何というか」と尋ねたところ、住持は「こう山と申します」と答えた。それと聞いた義経は「今日の寺講を記念して講山と唱えよ」といったので、以来西から講山、東から甲山、南から神山、北から剛山、と呼ぶようになったと伝えられている。その真偽はともかくとして、剛山山上は四方に展望が開け、 東と南を篠山川が天然の要害をなし、城砦を築くのには格好の地であった。


自然地形の西方尾根 ・ 西方尾根を切る堀切 ・ 日置方面を展望 ・ 虎口状地形の石垣址?


主曲輪西方端の竪堀 ・ 西方端の大岩 ・ 西方端の虎口 ・ 曲輪群


切岸と曲輪 ・ 主曲輪を東西に区画する横堀 ・ 東曲輪の切岸と腰曲輪 ・ 東南部の小曲輪群


城址の縄張は剛山山上に東西五百メートル、南北七十メートルに広がる大きなものである。はじめ、八上城主波多野氏が北方の守りとして支城を築いたといい、のちに明智光秀が八上城攻撃の付城として用いたらしい。『篠山封彊志』には、「天正中明智ハ八上ヲ囲ミ里民皆乱ヲ避ク、山頂二遺跡存在セリ」とあり、明智方が拠っていたことが知られる。現在、城址一帯は雑木に覆われているが、木の間越しに波多野氏が立て籠もった八上城が南西方向に、明智方の本陣となった般若寺城が西方に、 そして、南東部には同じく明智方の付城である堂山砦・上宿城が呼べば聞える距離に見下ろせた。
東西に長い城址は最高所を主郭として西方に曲輪が連なる梯郭式で、東寄り中央に設けられた横堀で東西に 区画されている。全体に削平は甘いが、東部主郭側の南斜面には小曲輪が設けられ、西部の曲輪は北から 西にかけて腰曲輪がとりまき、南側に腰曲輪が設けられている。虎口は西方曲輪の西端にあり、自然の大岩と 尾根に沿って切られた横堀と斜面の竪堀で防御を固めている。西に伸びる尾根上にも自然地形に近い曲輪が続き、 その中間あたりに大堀切が切られ、伸びきった縄張を巧みに締めている。
さらに山上の東部主郭から篠山川側に伸びた尾根先には剛山砦、剛山西方の鉄砲山には鉄砲山砦、その西方の八幡宮裏山にも 宮山砦が築かれていた。一方、剛山の東南山麓にはかつて東陽寺があり、その遺構も城砦群として使用されていたことは疑いない。このように、井上城は八上城を攻める明智方にとって、般若寺から上宿までをガッチリと固めた包囲網の要所を占める城であった。対する波多野氏にとっては、 厄介な位置に築かれた憎たらしい城だったことであろう。
・井上城址概略図
・登城:2009年11月09日
・図は国土地理院の二万五千分の一の地図をベースに『戦国・織豊期城郭論―丹波国八上城遺跡群に関する総合研究』 掲載図を組み合わせて作成しました。